今回は前回(122)に引き続き、ヤマトタケルの系譜の読み解きをします。
これまでのあらすじ
景行天皇の御子として生まれた日本武尊(ヤマトタケル)は兄を残酷な殺し方で殺したことから、父親に疎んじられてしまいます。
そのため熊曽征伐、出雲征伐、東征にわずかな兵と共に行かされました。
伯母の倭比売から頂いた草薙の剣(別名:アメノムラクモ)と共に戦い、妻の弟橘比売(オトタチバナヒメ)の助けもあり連戦連勝。
東征の帰りには美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚。
油断からか美夜受比売のところに草薙の剣を置いて伊吹山の神を征伐しに出かけましたが
大きな雹を降らされ病気になってしまいます。
それでも懸命に都を目指しますが、とうとう亡くなり、白い鳥となって飛び立ちました。
「古事記」におけるヤマトタケルの系譜②
「古事記」におけるヤマトタケルの系譜には大きな矛盾点があります。
それはヤマトタケルが複数の英雄を一人にまとめたからだという説や、単なる書き間違えだという説があります。
矛盾点も含めて「古事記」に書かれているヤマトタケルの系譜を紹介します。
妻子の紹介までは(122)をご覧ください。
・帯中津日子(タラシナカツヒコ)は第14代仲哀天皇となり天下を統治なさいます。
・稲依別王(イナヨリワケノミコ)は犬上君(イヌガミノキミ)・建部君(タケベのキミ)の祖先です。
・建貝児王(タケカイコノミコ)は讃岐の綾君(アヤキミ)・伊勢別・登袁別(トオノワケ)・麻佐首(マサノオビト)・宮首別(ミヤジノワケ)らの祖先です。
・足鏡別王(アシカガミワケノミコ)は、鎌倉別・小津の石代別(イワシロノワケ)・漁田別(イザリタノワケ)の祖先です。
・息長田別王(オキナガタワケノミコ)の子は杙俣長日子王(クイマタナガヒコノミコ)
杙俣長日子王の子は、飯野の真黒比売(マグロヒメ)と息長真若中比売(オキナガマワカナカツヒメ)と弟比売(オトヒメ)の3人。
・若建王(ワカタケノミコ)が飯野の真黒比売(マグロヒメ)と結婚して
(ヤマトタケルの子とひ孫が結婚するということです)
生んだ子は、須売伊呂大中比子王(スメイロオオナカツヒコノミコ)。
・須売伊呂大中比子王(スメイロオオナカツヒコノミコ)が近江の柴野入杵(シバノイリキ)の娘の柴野比売と結婚して生んだ子は、迦具漏比売(カグロヒメ)。
・そして景行天皇が迦具漏比売(カグロヒメ)と結婚してお生みになった御子は大江王(オオエノミコ)。
・大江王(オオエノミコ)が異母妹の銀王(シロガネノミコ)と結婚して生んだ子は、大名方王(オオナガタノミコ)と大中比売(オオナカツヒメ)の2人。
・大中比売(オオナカツヒメ)は香坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)の母です。
景行天皇の御寿命は137歳。
御陵は山の辺の道のほとり(奈良県天理市渋谷町向山)にあります。
景行天皇陵(写真:友人提供)
日本神話タロット 極参 剱ノ士(ソードのナイト)「ヤマトタケル」
剱ノ士(ソードのナイト)の意味
・正位置
正義感、先駆的、有望、無鉄砲、率直
・逆位置
集中力の欠如、立ち往生、辛辣な発言、好戦的
解説文写し
ヤマトタケルは馬を駆り立て進んで行きます。
ヤマトタケルの猛進は留まるところを知らず、西へ東へ奔走しました。
彼は立ち止まってはいけないと思っているため、休むことをしません。
そのため、疲れからくる集中力の欠如などが心を蝕みました。
参考記事
はるさん的補足 日本書紀における東征
景行天皇の「日本書紀」における記述は「古事記」と全く違います。
熊曽征伐も「日本書紀」では最初に景行天皇が行なったと、(112)の補足で説明しました。
東征についても、「日本書紀」は違います。
「日本書紀」では、最初に東征を命じられたのはヤマトタケルではなく、兄の大碓命(オオウスノミコト)でした。
ところが、大碓命が蝦夷と戦うことに怯えて逃亡してしまったのです。
そこで、ヤマトタケルが東征をすることになりました。
つまり「日本書紀」でヤマトタケルは兄を殺してないのです。
「日本書紀」では景行天皇とヤマトタケルの仲も良好で、景行天皇はヤマトタケルの死をとても悲しみ、10年後にはヤマトタケルが遠征した諸国を巡幸して偲んだことになっています。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)