(114)『古事記』ヤマトタケルの出雲征伐・四隅突出型墳丘墓
イチイガシの木

前の記事

次の記事

これまでのあらすじ

誤解から兄「大碓命(オオウス)」を殺してしまった「日本武尊(ヤマトタケル)」は父の景行天皇熊曽征伐をするよう命じられます。

叔母「倭比売(ヤマトヒメ)」からいただいた着物を着て潜入し、油断した熊曽を征伐しました。

出雲建を征伐

日本武尊熊曽征伐を終えると山の神河の神穴戸の神を平定しました。

穴戸とは現在の広島県福山市の芦田川河口辺りのことです。

その後、日本武尊出雲国に入って滞在します。

出雲で猛々しい者として名を馳せていた「出雲建(イズモタケル)」を討つために、まずは仲良くなりました。

そして密かにイチイガシの木で偽物の刀を作り、自分の太刀として身に着け、出雲建と一緒に斐伊川で水浴びをします。

斐伊川

日本武尊は先に川から上がり、出雲建が置いていた太刀を身に着けて

ヤマトタケル
太刀を交換しよう

とおっしゃいました。

後から出雲建が川から上がり、イチイガシでできた偽物の刀を身に着けました。

すると日本武尊

ヤマトタケル
さあ太刀合わせをしよう

とおっしゃいました。

出雲建が刀を抜こうとしても、太刀が偽物なので抜けません。

その隙に、日本武尊出雲建を一太刀に斬り殺しました。

日本武尊

ヤマトタケル
出雲建が腰に着けた太刀は蔦ばかりの飾り鞘!
刀身がなくて、まあおかしい!

と歌い、機嫌よく都に上がって、景行天皇熊曽征伐出雲征伐のことを報告しました。

斐伊川は「速須佐之男(スサノオ)」が「ヤマタノオロチ」と戦った川ですね。

はるさん的補足 強大な出雲勢力

出雲文化圏古墳、遺跡関連の地図

神政国家が存在した?

神政国家とは

特定の宗教を総括する組織と、

国家を統治する機構

同等な国家における政体です。

こうして出雲は平定されましたが「古事記」は出雲を重要視しています。

出雲地方日本海に面し、古くから日本各地だけでなく海外との交易が盛んであったとされ、当時、一大文化圏を築いていました。

昭和59年(1984年)に2世紀半ばの銅剣358本が荒神谷遺跡で発見され、この数が後世記録された出雲の神社の数に近いことから、祭祀によって首長たちをまとめた「神政国家」が存在したという説が有力になりました。

四隅突出型墳丘墓

四隅突出型墳丘墓という形の墳墓が残されています。

西谷2号墳 島根県出雲市大津町西谷 (この写真は古代出雲への道さんhpからお借りしました)

四隅突出型墳丘墓3世紀初め出雲東部を中心に、島根鳥取広島北陸地方の一部で造られました。

この墳墓は四隅に突出した形状で、斜面や裾に石を並べたのは出雲独特の様式です。

これは当時、出雲を中心に連合国家が成立していたことを示す証拠の一つとされました。

この墳墓は大和朝廷が進出する4世紀半ば頃から減り出雲でも古墳が造られるようになります。

前の記事

次の記事

古事記の他の記事

古事記の他の記事はこちらからご覧ください。

上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)

中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇)

にほんブログ村

https://twitter.com/haruaromatarot1/status/1560446020542427136?s=29&t=o6mYu4U62L1Jfo3kRMFNTw
コメント一覧
  1. 日本武尊さまは手段を選ばぬお方なのですね…卑怯と蔑まされても仕方のない所業です。
    四隅突出型墳丘墓には以前、お訪ねしました。はるさんの解説通りの看板は掲げられていました。
    墳墓に見る縄張り争いも面白いですね。

    • ありがとうございます
      この場面は流石に出雲建に同情しますね。
      心優しいヤマトタケルが、無慈悲にならざるを得ない状況です。
      古事記の景行天皇のような父親を持つと、人間は壊れますね。

      さすが、才色健躾さん!
      四隅をご覧になったことがあるんですね。私は無いです。
      あの形は再生を表しているそうですね。
      神政国家ここにあり、という感じです!
      縄張り争いがあるということは戦争があるということですよね。
      誰が勝つにせよ、殺し合いはあるので、スパっと一思いに殺さないと自分の命が危ない状況を示していると思います。

  2. 熊曽だけでなく、天皇のお気持ちを推し測って帰途であちらこちらを安定させたのですね。山の神、河の神も地名?神なので、反逆者ではなかったでしょうね?
    各神社には、それぞれ1本の銅剣が献上されていたのかな?献上したのは、それぞれ別の豪族だったとか?
    墳墓の形が一致ということは、豪族同士が友好関係を結んでいて、交流があって共通の文化圏だったということですね。墳墓から古墳への変遷から、朝廷進出の時期の裏付けができるなんて、面白いですね。

    • さゆさん、ありがとうございます♪
      山の神や河の神は熊曽がいたと思われる九州南部から広島県福山市までの間の数々の山や河にいた神だと思います。
      一括りにされているということは、それほど反抗しなかった方々なのでしょうね。
      神政国家のしきたりは謎も多そうですが、剣を入れて再生を祈っていたのかもしれないですね。
      あの十字架のようなクロスした形は再生を願った形のようですからね。
      友好関係、縄張り争い、様々だとは思いますが、墳墓から剣がたくさん出てくるというのは興味深いですね。
      そして、古墳へ代わっていく、、、昭和になってから新事実が出てくるので、宣長や津田左右吉は知らない事実なのです。

  3. ヤマトタケルは、様々な策略を練り、敵に近づき、相手が心を許し、油断した瞬間に倒すのですね。ヤマト国の出雲成敗の残虐さを聞いた事があります。いつの時代も戦争は残酷ですね

    • ありがとうございます♪
      ヤマトタケルが出雲建を征伐した場面も残酷に感じますが、実際はもっともっと酷いのでしょうね。
      ヤマトタケルが歌を歌って意気揚々と帰京する辺り、戦ってハイになっている様子ですよね。
      一刻も早く景行天皇に報告して褒めてもらいたかったんでしょうけど、結果論から言えば途中で休んで欲しかったです。
      戦争は嫌ですね。

  4. 今でこそ「どっちが島根?どっちが鳥取?」とか言われたりするほどマイナーな扱いをされたりもしていますが、太古の出雲は半島や大陸に近く船で往来も盛んだったでしょうし、新しい文化などもどんどん入ってくる要所・要衝だったのでしょう。
    そこには力を持つ勢力が居て、大和朝廷にとって大いなる脅威になった、というか出雲の国は良い感じに栄えて機嫌よくやっていたところを大和から勝手に脅威扱いされてこんな目に遭った、なんていう風にも見えて。歴史上では勝者こそが正義と描かれてしまうという事が垣間見えます。
    ヤマトタケルのは知恵といえば知恵だし、卑怯とも言える。だけど同時に「(どんな手を使ってでも)やらなければいつかこっちがやられる」事情も見える。
    ちょっとやりきれない部分もありますが、そこは「英雄譚にして振り切る」という感じだったのかもしれませんね。

    • ありがとうございます♪♪
      おっしゃる通り、出雲には立派な王国があったので、ヤマトタケルが征伐したものの出雲大社は残さざるを得なかったのでしょうね。
      だからこそ、日本書紀には出てこない場面です。
      勝者が正義ですが、ヤマトタケルのしたこともツッコミ所満載ですね。
      武士道も何もなく、勝つことが全てだったのでしょうけど。
      年齢と味方の軍勢がない状態で敵地に行かせた景行天皇を攻めるべきでしょうね。
      紛れもなく英雄譚です。

コメントを残す

古事記の関連記事
おすすめの記事