![(181)『古事記』[完] 推古天皇 聖徳太子と蘇我馬子との三頭体制](https://i0.wp.com/harusantarott.com/wp-content/uploads/2023/01/C2E9CB17-2C22-417B-920F-8C4B1CBF7E37.jpeg?fit=300%2C168&ssl=1)
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これまでのあらすじ
蘇我馬子・聖徳太子らの軍が
物部守屋・間人穴太部王(アナホベ)軍を倒します。
それによって天皇となった崇峻天皇ですが、やがて馬子と対立。
馬子は崇峻天皇のことも殺害した、と言われています。
推古天皇の即位 初めての女帝
592年に崇峻天皇が暗殺されました。
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592年の時点で第29代欽明天皇の皇子たちは亡くなっていました。
(敏達天皇と皇妃の御子である忍坂日子人太子に関しては生年没年ともに不明なのでわかりません。
舒明天皇は593年生まれなので、この時はまだ生まれていません。)
となると、この時点での天皇候補は
・18歳の聖徳太子
・生年不明だけどまだ若い竹田皇子
と考えるのが一般的でした。
父親の系統が大切なため、
竹田皇子は蘇我氏の系統ではありません。
聖徳太子は蘇我氏系です。
推古天皇(この時は豊御気炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト)は
息子の竹田皇子に即位を望んだと思われます。
しかし、竹田皇子を即位させたくないという大臣の蘇我馬子の意向から、
38歳の推古天皇 (母方が蘇我氏系) という女帝が誕生しました。
「日本書紀」によると推古天皇は
姿色(ミカオ)端麗(キラキラ)しく挙措動作は乱れなく整った
女性だったということです。
古事記における推古天皇
崇峻天皇の妹の
豊御気炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト)は、
小治田宮(オハリダノミヤ:奈良県明日香村雷の辺り)で天下をお治め
第33代 推古天皇となりました。
推古天皇が天下を治め統治した期間は37年(593〜628年) になります。
推古天皇は、628年の3月15日に崩御しました。
推古天皇陵
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推古天皇の御陵は、
大野岡(オオノオカ:奈良県宇陀市室生区または奈良県橿原市和田町)の上にありましたが、
後に
科長(シナノ:大阪府太子町山田高塚)の大陵(オオミササギ)に移しました。
陵名は
磯長山田陵(シナガノヤマダノミササギ)
墳名は
「古事記」における
推古天皇の記述は以上となります。
そして
「古事記」もここで完結します。
推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三頭体制
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推古天皇は甥の聖徳太子を摂政として重用します。
推古天皇にとって叔父にあたる蘇我馬子は引き続き大臣として活躍
三頭体制で政務を執ります。
基本方針としては
天皇を中心とする中央集権国家体制を構築すること
で、聖徳太子が辣腕をふるいました。
三頭体制の内政
・仏教振興
仏教文化を積極的に輸入
飛鳥文化を開花
・冠位十二階の制定 (603年)
・憲法十七条の制定 (604年)
・史書の編纂
三頭体制の外政
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・朝鮮出兵 (600年、602年、623年)
新羅征討を行い、失敗
・遣隋使の派遣 (607年〜)
小野妹子らを派遣
仏教文化や大陸の先進書物をもたらせます。
聖徳太子が607年の遣隋使派遣をした際、
対等外交を求めて煬帝 (ヨウダイ) を怒らせました。
(日出る処の〜という手紙のことですね)
当時、中国に対して「臣下の礼」を取るのが外交上の常識だったからです。
この頃のヤマト朝廷は平和外交に転じ、百済、新羅だけでなく
高句麗とも友好的な外交をしていました。
一方、隋は598年から行なっていた高句麗遠征で苦戦しており、
ヤマト朝廷はそのことを知っていました。
ヤマト朝廷と高句麗が友好関係を結ぶのを得策としない隋は、
ヤマト朝廷の要求を認めるだろうと予想したのです。
結果は予想通りとなり、608年の小野妹子の帰国と共に、隋から使者が送られてきます。
そしてこれ以降、遣隋使は数回にわたり派遣されました。
はるさん的補足 推古天皇の人生
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554年 欽明天皇の皇女として生まれる
18歳 敏達天皇と結婚 7人の皇子女を生む
21歳 敏達天皇の皇妃に
31歳 敏達天皇 崩御
38歳 推古天皇として即位・間もなく息子 竹田皇子 亡くなる
🍃三頭体制で政治を行なう
68歳 聖徳太子 亡くなる
72歳 蘇我馬子 亡くなる
74歳 崩御
推古天皇は晩年、
御自分のために新たな陵を作らないように命じ、
竹田皇子が埋葬されていた陵に合葬されることを望んだそうです。
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古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)