(181)『古事記』[完] 推古天皇 聖徳太子と蘇我馬子との三頭体制
推古天皇聖徳太子

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これまでのあらすじ

蘇我馬子・聖徳太子らの軍が

物部守屋・間人穴太部王(アナホベ)軍を倒します。

それによって天皇となった崇峻天皇ですが、やがて馬子と対立。

馬子崇峻天皇のことも殺害した、と言われています。

推古天皇の即位 初めての女帝

592年に崇峻天皇が暗殺されました。

592年時点で亡くなっていたと確定している方に❎をしてあります

592年の時点で第29代欽明天皇の皇子たちは亡くなっていました。

(敏達天皇と皇妃の御子である忍坂日子人太子に関しては生年没年ともに不明なのでわかりません。
舒明天皇は593年生まれなので、この時はまだ生まれていません。)

となると、この時点での天皇候補は

・18歳の聖徳太子

・生年不明だけどまだ若い竹田皇子

と考えるのが一般的でした。

父親の系統が大切なため、

竹田皇子蘇我氏の系統ではありません

聖徳太子蘇我氏系です。

推古天皇(この時は豊御気炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト)

息子の竹田皇子に即位を望んだと思われます。

しかし、竹田皇子を即位させたくないという大臣の蘇我馬子の意向から、

38歳の推古天皇 (母方が蘇我氏系) という女帝が誕生しました。

日本書紀」によると推古天皇

姿色(ミカオ)端麗(キラキラ)しく挙措動作は乱れなく整った

女性だったということです。

これまで天皇

・推古天皇は初めての女帝といわれます、が

神功皇后 (仲哀天皇の妃・応神天皇の母) を天皇だったとする書物もあります。

履中天皇皇女である飯豊青皇女は、宮内庁から不即位の天皇という扱いをされています。

古事記における推古天皇

崇峻天皇の妹の

豊御気炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト)は、

小治田宮(オハリダノミヤ:奈良県明日香村雷の辺り)で天下をお治め

第33代 推古天皇となりました。

推古天皇が天下を治め統治した期間は37年(593〜628年) になります。

推古天皇は、628年の3月15日に崩御しました。

推古天皇陵

山田高塚古墳 (大阪府南河内郡太子町)

推古天皇御陵は、

大野岡(オオノオカ:奈良県宇陀市室生区または奈良県橿原市和田町)の上にありましたが、

後に

科長(シナノ:大阪府太子町山田高塚)の大陵(オオミササギ)に移しました。

陵名

磯長山田陵(シナガノヤマダノミササギ)

墳名

山田高塚古墳(ヤマダタカヅカコフン)です。

古事記」における

推古天皇の記述は以上となります。

そして

古事記」もここで完結します。

推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三頭体制

推古天皇は甥の聖徳太子を摂政として重用します。

推古天皇にとって叔父にあたる蘇我馬子は引き続き大臣として活躍

三頭体制で政務を執ります。

基本方針としては

天皇を中心とする中央集権国家体制を構築すること

で、聖徳太子が辣腕をふるいました。

三頭体制の内政

仏教振興

 仏教文化を積極的に輸入

 飛鳥文化を開花

冠位十二階の制定 (603年)

憲法十七条の制定 (604年)

史書の編纂

 「国記」「天皇記」の編纂 (620年)

「国記」「天皇記」

600年に文帝(ブンテイ)

日本の国家体制が整ってないことを指摘されました。

そこで、

地方支配の強化や天皇の権威を高めるために編纂し

内政改革をしたと考えられています。

645年の「乙巳の変」の際、蘇我蝦夷の邸宅で焼かれてしまいました。

この時には「国記」は戦火から出されたものの、

国記」「天皇記」ともに現存していません

三頭体制の外政

もう一度学びたい 古事記と日本書紀 p243」より

朝鮮出兵 (600年、602年、623年)

 新羅征討を行い、失敗

遣隋使の派遣 (607年〜)

 小野妹子らを派遣 

 仏教文化大陸の先進書物をもたらせます。

聖徳太子が607年の遣隋使派遣をした際、

対等外交を求めて煬帝 (ヨウダイ) を怒らせました。

(日出る処の〜という手紙のことですね)

当時、中国に対して「臣下の礼」を取るのが外交上の常識だったからです。

この頃のヤマト朝廷は平和外交に転じ、百済、新羅だけでなく

高句麗とも友好的な外交をしていました。

一方、は598年から行なっていた高句麗遠征で苦戦しており、

ヤマト朝廷はそのことを知っていました。

ヤマト朝廷高句麗が友好関係を結ぶのを得策としない隋は、

ヤマト朝廷の要求を認めるだろうと予想したのです。

結果は予想通りとなり、608年の小野妹子の帰国と共に、から使者が送られてきます。

そしてこれ以降、遣隋使は数回にわたり派遣されました。

はるさん的補足 推古天皇の人生

奈良県明日香村

554年 欽明天皇の皇女として生まれる

18歳 敏達天皇と結婚 7人の皇子女を生む

21歳 敏達天皇皇妃

31歳 敏達天皇 崩御

38歳 推古天皇として即位・間もなく息子 竹田皇子 亡くなる

🍃三頭体制で政治を行なう

68歳 聖徳太子 亡くなる

72歳 蘇我馬子 亡くなる

74歳 崩御

推古天皇は晩年、

御自分のために新たな陵を作らないように命じ、

竹田皇子が埋葬されていた陵に合葬されることを望んだそうです。

磯長山田陵 (大阪府南河内郡太子町)

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中巻(神武天皇から応神天皇)

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コメント一覧
  1. 才色健躾 より:

    今編にて古事記も終了でしょうか…とても残念に思います。
    此度の聖徳太子、推古天皇の記述は幾重にも資料を読み済ませていました為にスラスラと理解適いました。
    然りながらあらためて”推古天皇の人生”を拝見しますと選ばられるべき人格である様に思えます。
    一番の救いは傍若無人な馬子公の死没を見届けての崩御と私は思います。

    • harusan0112 より:

      本当にありがとうございます♪♪

      いつも励ましていただけたおかげで古事記をコンプリートできました。
      この辺りの歴史は面白いですね。
      ただ、国記などが見つかれば蘇我氏寄りの解釈が生まれてもおかしくないですね。
      記紀は藤原不比等の意向が詰まってますから。

      推古天皇朝の最後の方は蘇我蝦夷が大臣になりましたが、力は失っていたので、次の天皇は舒明天皇になります。
      馬子の主張する権利を押さえられたのも推古天皇の人柄と信念だったように思います。
      なにより、長生きしたのは素晴らしいことですね。

      才色健躾さんはコメントをほぼコンプリートして下さいました。
      ありがとうございます。
      そしてお疲れさまでございます。
      お会いしたことがなくても、とても近しく感じております。
      本当に感謝しております。

  2. さゆ より:

    推古天皇は他の天皇に比べて治められた期間が長かったですね。三頭体制が安定していたのでしょうね。
    馬子は、政治に関わり、天皇との関係が維持され望み通りだったのではないでしょうか?
    推古天皇のときは、推古天皇が女性であるという理由で、摂政が置かれていたのですね。
    今は、天皇が幼少又は国事行為が出来ないときに置かれますね。女性という理由は、皇室典範で男子継承になっているので今は必要ないのですね。
    随は、ヤマト朝廷を味方につけようとして遣隋使を送ってくるようになったのですね。
    今回は、聖徳太子の業績など学校で習ったことの復習や遣隋使派遣のきっかけなどがわかりました。
    はるさんの古事記の解説でいろいろなことを知り、知識が増えました。ありがとうございました。

    • harusan0112 より:

      いつも本当にありがとうございます♪♪
      おかげ様で完走できました
      本当は竹田皇子に皇位を譲るまでの繋ぎのつもりだったのかも知れません。
      皇位に就いた時は、まさかこんなに長い間、天皇の座に座っていることとなるとは思わなかった〜という感じだったかもしれないですね。
      隋の煬帝はしょうもない皇帝だったようですね。
      聖徳太子のお手紙は有名ですが、前後関係まで学生にも学んでもらいたいです。

      さゆさんには励まされたし、私が気づかないことまで気づかせてもらえたことも多かったです。
      感謝というより戦友のような気持ちですね。
      本当にありがとうございました‼️

  3. ブラボー! より:

    遅ればせながら長い間お疲れ様でした。
    面白かったです。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪♪

      コメント嬉しいです

      • みゆき より:

        推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三頭体制まできて、古事記の延々と続く流れを実感出来ました!日本古代史の知識ゼロを痛感しましたが、はるさんの古事記解説本当に面白かったです❢長い間お疲れ様でした❤

        • harusan0112 より:

          ありがとうございます!
          最後がビッグネームで終わるので親しみが感じられますよね。
          長い間読んで下さってありがとうございました
          本当に感謝の気持ちでいっぱいです

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