(147)『古事記』仁徳天皇 八田若郎女、女鳥王姉妹への恋と成敗
ハヤブサ

これまでのあらすじ

政治家としては民を思い、免税などを行った仁徳天皇ですが、女好きな一面も。

そのため仁徳天皇のことが大好きな皇后は嫉妬に苦しみます。

八田若郎女への恋

この記事に登場する方々の相関図

このように仁徳天皇皇后、石之日売(イシノヒメ)と歌のやり取りをなさる一方で、
八田若郎女(ヤタノワカイラツメ)へも恋心を燃やし歌をお送りになります。

仁徳天皇
💌八田(ヤタ)の 
一本菅(ヒトモトスゲ)は
子持たず 立ちか荒れなむ
惜(アタ)ら菅原(スガハラ)
言(コト)をこそ
菅原と言はめ 惜ら清し女(メ)

現代語訳:


八田の一本菅たる貴女は、
子も持たないまま、
立ち枯れていくのでしょうか
勿体無い

言葉では菅原(綺麗な腹)というけれど
勿体無い

すがすがしい素敵な女性なのに

すると八田若郎女が答える歌に言うには、

八田若郎女
💌八田の 一本菅は 
一人居りとも 
大君し
良しと聞こさば 

一人居りとも

現代語訳:


八田の一本菅たる私は、
たとえ一人でも、
天皇のご寵愛さえ得られれば、
たとえ一人でも、いいのです

そして、八田若郎女御名代(天皇・皇后・皇子・皇女の名を後世に伝えるために設置された部)として八田部を定めました。

速総別王と女鳥王

八田若郎女の妹、女鳥王にも求婚

仁徳天皇は弟の速総別王ハヤブサワケノミコ)を仲人として送り、腹違いの妹の女鳥王メドリノミコ 八田若郎女の同腹妹)にも求婚しました。


すると、女鳥王速総別王にこうお答えしました。

女鳥王
💔大后の石之日売は、たいそうご気性が荒いので、
天皇は八田若郎女をお迎えることもできませんでした。

だから、私はお仕えできません。
私はあなた(速総別王)の妻になりましょう

こうして女鳥王速総別王は結婚します。

仁徳天皇の系譜には女鳥王仁徳天皇と結婚したことになっていました。

(参照:(143) 仁徳天皇 皇妃と皇子女)

そして、速総別王天皇のもとに帰らず、報告もしませんでした。

🍃

天皇は事情を知るために自ら女鳥王の屋敷に出かけると、敷居の上に座りました。

その時、女鳥王は機織りで布を織っていました。
天皇はお聞きになりました。

仁徳天皇
その布は誰のために織っているのか
女鳥王
速総別王の服です

天皇は、女鳥王の胸の内を知り、諦めて宮へ帰って行きました。

その後、速総別王が帰ってくると、なんと、女鳥王はこんな歌を詠みます。

速総別様、鷦鷯(サザキ 仁徳天皇)の命を奪いなさい

女鳥王
雲雀(ヒバリ)は 
天に翔ける 高行くや 
速総別(ハヤブサワケ) 
鷦鷯(サザキ)取らさね

現代語訳:

ひばりさえ、天翔けます
ハヤブサなら
サザキ(スズメ)の命を
奪ってしまいなさい)
雲雀(ひばり)

仁徳天皇は天皇になる前、

大雀命オオサザキノミコト)と呼ばれていました。

🍃

天皇は人づてにこの歌を聞いて、

速総別王女鳥王を成敗しに軍勢を向かわせます。

二人は逃げて、倉椅山(クラハシヤマ:奈良県桜井市の山)に登りました。

次に、宇陀(ウダ)の蘇邇(ソニ:奈良県宇陀郡曽爾村)に逃げた時に、天皇の軍勢に追い付かれて殺されてしまいました。

女鳥王の玉釧(たまくしろ)

二人を討った将軍、山部の大楯連(オオダテノムラジ)は、

女鳥王が手に巻いていた玉釧(たまくしろ:玉を付けた腕輪)を自分の妻に与えました。

古代の祭祀で使われていた道具、玉釧は写真中央の物のような物か?

ある日の宴会の時、山部の大楯連の妻も参内しました。

大后の石之日売命はその腕輪に見覚えがあり、女鳥王の腕輪とわかったのです。

すぐさま、大楯連の妻を下がらせました。

そして、大楯連を呼ぶとこう言い渡しました。

石之日売
女鳥王たちには不敬な行為があったから、殺すことになった。
でも、その家来であったお前は、主君の腕輪をとり、妻に与えたのか!

こうして、大楯連は処刑されました。

石之日売が大楯連に激怒、処刑したのは、

女鳥王に同情していたからとも

・主君のものを家来が取るのはけしからんという儒教的な考えからとも

言われています。

はるさん的補足 仁徳天皇が姉妹に拘った理由

この記事に登場する方々の相関図

応神天皇は宇遅能和紀郎子を後継者に指名

応神天皇にはたくさんの御子がいましたが、宇遅能和紀郎子を後継者に指名してました。

(参照:(134 )三皇子の分掌)

しかし宇遅能和紀郎子は亡くなってしまったので仁徳天皇が即位しました。

宇遅能和紀郎子、八田若郎女、女鳥王の母は応神天皇の大のお気に入りでしたから、

八田若郎女女鳥王もとても美しかったのでしょう。

けれどもそれだけではなく、父(応神天皇)が決めた後継者を守れなかったことへの申し訳ない思いが仁徳天皇の中にあったのかも知れません。

また宇遅能和紀郎子が亡くなる時に、2人の妹のことを仁徳天皇にお願いしたのではないかという説もあります。

石之日売が嫉妬した理由

石之日売は元から嫉妬深い性格だったのかも知れません。

しかし、それに加えて石之日売豪族出身(皇族ではない)皇后だったことが影響しているのではないかと言われています。

つまり、(応神天皇の娘である) 八田若郎女に御子ができてしまうと、石之日売の生んだ御子が後継者になれなくなることを心配したのではないかとも考えられています。

ちなみに石之日売が亡くなると八田若郎女が立后しますが子がいなかったので、石之日売の生んだ御子たちが即位します。

八田若郎女に子が出来なかったことを、後世になって石之日売のせいにしたのかもしれません。

天地開闢からの記事

これまで書けている記事はこちらからご覧ください。

上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)

中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇)

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コメント一覧
  1. 才色健躾 より:

    この度のお話ははるさん自筆の相関図を要します。
    あらためて相関図を拝見しながらブログを読ませて頂き理解適いました
    然りながら泥沼化の関係性に仁徳天皇は真に善治をされたのか否か疑わしく成りました。
    石之日売と八田若郎女の承継争いも映画(極道の妻たち)の様ですね。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      応神天皇の御子さま方は何をやってるんでしょうね、まったく。笑
      善政、、、確かに治水工事は仁徳天皇の時代より随分後のことだとわかったようですし、儒教の伝来と仁徳天皇の時代を結びつけただけのような気がしますね。
      皇族もヤクザも同じ人間。笑
      妻と愛人たちによる承継争いは命懸け!

  2. さゆ より:

    人の感情は自分の意のままにならないとわきまえていらしたので、仁徳天皇は女鳥王と速総別王が結婚したことには怒らなかったのですね。
    しかし、うわさだけで成敗するのは、問題があったかもしれません。事実かどうかを、確かめてから軍を派遣した方がよかったかも。逃げたということなので事実だったのでしょうけど、、、。
    元を辿れば、女鳥王が速総別王をけしかけなければ、仁徳天皇も諦めていたので、それぞれが平穏に暮らしていたのになあと思います。
    八田若郞女は、立后されたので後からお宮に入れたのでしょうか?

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      天皇ともあろう方が噂レベルで成敗するのは良くはないのですが、歴史を紐解くと、誰かに讒言されて処刑されるケースは多々あります。
      今は裁判をしてくれるのでありがたいです。
      もっとも、女鳥王たちが謀叛を起こそうとしたか怪しいという声もあります。
      (仁徳天皇が振られて怒って軍隊を出動させた?)
      石之日売が亡くなるまで待ったようですが、八田若郎女はその後皇后となられたので、お宮にお入りになったと思います。

  3. 久子 より:

    英雄、色を好むって事でしょうか。
    裏切った人への仕打ちも激しく、
    まさに、愛憎は表裏一体ですね。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      なんだか、身内でドロドロしてますね (泣)
      ドロドロがまだまだ続くんですよね、、、

  4. Yoshi より:

    使いとして行った弟が愛しの女性と良くなってしまったり、そこから女性にやっちゃいなよとそそのかされてみたり・・・
    仁徳天皇から見るとなかなかな悪夢ですが
    あと、女鳥王さんイランこと言って・・・。奥さんとか彼女とかに「あいつ、やっちゃいなよ!」なんてそそのかされる、といったお話は本当にたくさんある感じではありますが、今回は失敗だったわけですね。
    曽爾って高原のイメージで。そんなとこまで逃げたんだ・・・大変な、大規模な捕物・追討だったのかもしれません。

    あと、子供のできる・できないって本当分かりませんね。授かり物とは本当によく言ったもので。ずっと出来ないとなった時に、誰か・何かの因縁や呪い・祟りみたいに思ってしまう、思いたくなるのもわかるような気がします。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます

      子供ができるできないは、妻のみならず、親族や実家の存亡の問題に発展する大切な出来事ですね。
      仁徳天皇と八田若郎女の間に子がいないというのは葛城王国にとって重要なことだったでしょう。
      この時代の奥様方が強いのも面白いですね、

      曾禰は地図で見ましたが、そんな所まで、、、という感じなんですね!
      そういう情報、本当にありがたいです。
      奈良県を少し周って、地図で見る以上に1ヶ所一ヶ所が遠いのはわかりました。
      当時、小さな馬に乗って、家臣は走って逃げたのでしょうね。

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