(144)『古事記』仁徳天皇 治水工事・3年間免税!「聖帝の御世」

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これまでのあらすじ

応神天皇の御子、仁徳天皇は難波の高津宮で即位されました。

仁徳天皇 「古事記」における聖帝の御世

御名代を定める

御名代とは

天皇・皇后・皇子・皇女の名を後世に伝えるために設置された部です。

仁徳天皇の御世に、皇后の石之日売(イワノヒメ)御名代(ミナシロ)として葛城部(カツラギベ)を定めました。

また皇太子の伊耶本和気(イザホワケ 後の第17代履中天皇)の御名代として壬生部(ミブベ)を定めます。

壬生部とは

養育を担当する部です。

また、水歯別(ミズハワケ 後の第18代反正天皇)の御名代として蝮部(タジヒベ 大阪市、八尾市、藤井寺市辺りか?)を定めました。

また大日下(オオクサカノミコ)の御名代として大日下部(オオクサカベ)を定め、

若日下部(ワカクサカベ 髪長比売との娘、波多毗能若郎女のこと)の御名代として若日下部を定めました。

治水工事を行う

また(渡来人の)秦人を使って茨田(ウマラタ)の堤茨田の三宅を作って、

茨田堤跡

また丸邇(ワニ)の池依網(ヨサミ)の池を作り、

また、難波運河を掘って海に通し、また、小橋の江(オバシノエ)を掘って、

墨江(住吉)の港を定めました。

仁徳天皇の治水工事(地図でスッと頭に入る古事記と日本書紀p.93)

税の免除

ある時、仁徳天皇が高い山に登って国の四方を見ておっしゃるには

仁徳天皇
国の中に炊煙が立ってない。
国民はみんな貧乏だからだろう。
だから、今から三年間、全部の人々の税や労働を免除せよ。

このために宮殿は破れ壊れて、どこも雨漏りしても、全く修理されませんでした。

箱を置いて漏る雨を受けて、漏れない所へ移って雨を避けました。


三年後に国の中を見たら、どこも炊煙が立ち上っていました。

仁徳天皇
もう人民が豊かになったな。

と思い、もういいだろうと課役を命じました。


このようなことで、人民は幸せになり、労役に苦しむことはありませんでした。

それで、その御世を称えて、仁徳天皇の世を「聖帝(ヒジリノミカド)の御世」と呼んでいます。

聖(ヒジリ)とは

日を知る人という意味。

転じて、有徳の天子・聖人を讃える言葉で、

中国古代の聖天子()になぞらえています。

はるさん的補足 仁徳天皇と儒教思想

仁徳天皇といえば、巨大な前方後円墳と、この記事のエピソードが有名ではないでしょうか。

応神天皇の時代に和邇吉師(ワニキシ 王仁とも書きます)百済からいらして論語や漢字を日本にもたらせました。

(参照:(137)百済からもたらされた文化、技術)

和邇吉師仁徳天皇に直接、学問を教えていたと伝えられています。

和邇吉師の墓と伝えられる (大阪府 写真は大阪府のhpからお借りしました)

古事記」下巻からは、史実よりも天皇の人間的な面(恋愛など)が多く描かれていますが、この頃から儒教思想の影響が見られるようになります。

治水工事の時期免税を巡っても史実かどうか議論されることがあるようですが、「古事記」の下巻の最初を飾る仁徳天皇は、

仁政者・有徳者・善政者

で、国家確立期の支配者としての理想像として描かれました。

ですから「古事記」では仁徳天皇を聖帝と呼んでおらず、

仁徳天皇の時代を「聖帝の御世と呼んでいる

という表現になったのでしょう。

※ただし「古事記 序文」では「仁徳天皇は聖帝と伝えられています。」という表現になっています。

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中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇)

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コメント一覧
  1. とても興味深いお話しです。理想のお人を創り上げるには名前の如く”仁徳”ですね。解説されました事業は真実であるからこそ壮大な陵に民衆は尽力をされたとも捉えます。
    公共事業、税の免除…現在も類似する点も多々あり賢者な帝の様でしたね。
    この様なお方であれば”女性好き”は致し方の無い事と思います。

    • ありがとうございます♪
      なさったとされること、民への優しさから、素晴らしい漢風諡号を付けてもらいましたね。
      英雄は女性好きが多いですね。笑

    • 仁徳天皇は感受性が豊かで、素直な性格だったので、国民の生活にも配慮されるし、女性からも慕われたのかもしれません。いいお話ですね!

      • ありがとうございます♪
        仁徳天皇というと、陵とこの聖帝の部分が有名ですね。
        古事記には人間関係のゴタゴタ、ドロドロを長々と描かれているのですが、政治家としては素晴らしいのだと思います。

  2. 御名代は、養育担当などの役職のことで、語尾にはいつも部が付くのでしょうか?
    仁徳天皇は、人民を第一に考え、政策がしっかりした、賢明な方だったのですね。それで、人々の暮しが豊かになっていったのですね。

    • ありがとうございます♪
      御名代に「部」は必ずしもつかないようです。
      古事記にも何度か出てきた膳出(カシワデ 食事係)や
      舎人(トネリ 身の回りの世話をする人)なども御名代です。
      古事記などを編纂した時に仁徳天皇の時代に公共事業などを入れ込んだもかもしれませんが、理想の政治家として描いてもらえました。
      後世あたえられた漢風諡号も「仁德」
      儒教の教えに影響を受けたことがわかりますね!

  3. そういえば、民たちのかまどから煙があがっていない事を憂いて税を免除した君主があったという話を思い出しました
    仁徳天皇の事だったんですね。これは確かに聖帝です!
    仁もお徳も多分にあるから仁徳天皇?

    というか大阪近辺の地図を見ると、大阪湾・海がものすごく広いんですね。。難波のあたりまで海が来ていた、とは!

    • ありがとうございます♪
      はい。そのエピソードは仁徳天皇です!
      仁徳天皇というお名前は762年頃に淡海三船氏がつけた漢風諡号です。
      いいお名前をいただけましたね。

      神武天皇が日向から東征した様子の時も、地形が違うと感じました。
      住吉大社も住之江でしたし。
      東京も江戸の頃と随分変わっていますね。

      • 上町台地からチャリンコでシャーっと下っていった所、大阪ミナミのある難波とかも、すごく水辺、なんなら海・河口だったのかもしれませんね。
        波が難しい・航海が難しいから難波、としたらナットクの地名です。船がたくさん事故を起こした・難破したかもしれません。グリコ看板のところの戎橋は通称ひっかけ橋・ナンパ橋と言われる女の子に声をかける方の「ナンパ」のメッカでしたが、ってやかましいわって)
        大阪難波・ミナミに対するキタ・大都市梅田も埋田、埋めて作った田ということで、この辺りも水辺だったんでしょう。
        ・・・そういえば太閤秀吉公の大阪城は上町台地の上、地盤も強い一番良い所に建てられたのかな。
        色々思いながらちょっと調べてみたところで、興味深い記事を見かけました。まあ不動産の広告の意味も大きいであろう記事ですが、ここにはかなり興味深い地図が。
        https://www.sumitomo-rd-mansion.jp/kansai/tanimachi4/blog/525/

        • ありがとうございます♪
          大阪には数回、仕事などで行っただけなので観光をしたことが殆どないので、そのような情報は本当にありがたいです!
          広告も拝見させていただきました。
          分かりやすい地図付きでしたね。
          梅田が埋田だったとか、面白いです。
          江戸も随分埋め立てて東京に。
          よく発展したものですね。
          よく発展しましたね。

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