(178)『古事記』第30代 敏達天皇 皇子女と舒明天皇・蘇我氏の興亡

蘇我馬子が建立したと言われる飛鳥寺 (奈良県明日香村)

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これまでのあらすじ

国内外の乱がありましたが、欽明天皇が即位し、多くの御子をもうけました。

「古事記」における敏達天皇

欽明天皇の御子の沼名倉太玉敷命(ヌナクラフトタマシキノミコト)は、

他田宮(オサダノミヤ:奈良県桜井市)で天下を治め、

第30代 敏達天皇となりました。

天下を治めた統治した期間は14年 (572年?〜584年?) です。

推古天皇 (2番目の皇后)

敏達天皇が、庶妹( ママイモ:腹違いの妹)の

豊御気炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト 後の第33代 推古天皇)を娶り生んだ御子は

静貝王(シズカイノミコ)またの名は貝蛸王(カイタコノミコ)

竹田王(タケダノミコ)またの名は小貝王(オカイノミコ)

小治田王(オハリダノミコ)

葛城王(カツラギノミコ)

宇毛理王(ウモリノミコ)

小張王(オハリノミコ)

多米王(タメノミコ)

桜井玄王(サクライユミハリノミコ)

の8人です。

推古天皇

比呂比売命が亡くなった後、皇后に、

静貝王 (貝蛸王) はのちに聖徳太子妃となりました。

  

小熊子郎女・比呂比売 (最初の皇后)

また、伊勢大鹿首(イセノオオカノオビト )の娘の

小熊子郎女(オグマコノイラツメ 采女)を娶り生んだ御子は

布斗比売命(フトヒメノミコト)

宝王(タカラノミコ)またの名は糠代比売王(ヌカシロノヒメノミコ)

のお2人です。

🍃

また、息長真手王(オキナガノマテノミコ)の娘の

比呂比売命(ヒロヒメノミコト)を娶り生んだ御子は

忍坂日子人太子(オシサカノヒコヒツギノミコ)またの名は麻呂古王(マロコノミコ)

坂騰王(サカノボリノミコ)

宇遅王(ウジノミコ)

の3人です。

比呂比売命

最初の皇后でしたが、敏達天皇が即位して4年で亡くなりました。

老女子郎女と結婚

また、春日中若子(カスガノナカツワクゴ)の娘の

老女子郎女(オミナコノイラツメ)を娶り生んだ御子は

難波王(ナニワノミコ)

桑田王(クワタノミコ)

春日王(カスガノミコ)

大俣王(オオマタノミコ)

の4人です。

🍃

敏達天皇の御子は17人になります。

敏達天皇の御子 忍坂日子人太子の系譜

古事記」は推古天皇までですから、舒明天皇は「古事記」を超えています。

🍃

古事記」の編纂は天武天皇の遺志によるものです。

父帝の舒明天皇を記すことによって自らの正統性を強調したかったと思われます。

その中の忍坂日子人太子(オシサカノヒコヒツギノミコ)が、

庶妹の田村王(タムラノミコ)またの名は糠代比売命(ヌカシロノヒメノミコト)

小熊子郎女との皇女

宝王(タカラノミコ)またの名は糠代比売王(ヌカシロノヒメノミコ)

と書かれた女性と同一人物です。

を娶って生まれたのが

岡本宮にて天下を治めた第34代 舒明天皇

中津王(ナカツノミコ)

多良王(タラノミコ)

の3人です。

岡本宮の場所は

奈良県高市郡明日香村の雷丘・奥山・岡寺辺り

の3つの説があります。

また、漢王(アヤノミコ)の妹の

大俣王(オオマタノミコ)を娶り生んだ御子は

知奴王(チヌノミコ)

桑田王(クワタノミコ)の併せて二柱です。

🍃

また、庶妹の玄王(ユミハリノミコ)を娶り生んだ御子は

山代王(ヤマシロノミコ)

笠縫王(カサヌイノミコ)

のお2人です。

この忍坂日子人太子(オシサカノヒコヒツギノミコ)の御子すべて併せて7人になります。

敏達天皇は、甲辰年(584年)の4月6日に崩御しました。

敏達天皇陵 天皇陵最後の「前方後円墳」

宮内庁から敏達天皇陵と治定されている 太子西山古墳 (大阪府南河内郡)

敏達天皇の御陵は、

川内の科長(シナガ:大阪府南河内郡太子町太子)にあります。

陵名は

河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)

墳名は

太子西山古墳です。

宮内庁太子西山古墳の被葬者

敏達天皇および石比売 (敏達天皇の母 欽明天皇の皇后)合葬と治定しています。

先に埋葬されていた石比売の陵に敏達天皇を合葬したと治定されていますが、

(2〜3世紀頃のものと見られる) 円筒埴輪が発掘されるなど、

時代的に矛盾していることもあり敏達天皇陵ではないのではないかという説もあります。

もし、敏達天皇陵であれば、最後の前方後円墳となります。

円筒埴輪 (國學院大学博物館)

はるさん的補足 蘇我氏の台頭

ご覧のように敏達天皇皇后の御子 

忍坂日子人太子は天皇になれませんでした。

それは敏達天皇が崩御すると、蘇我氏の血を引く御子たちが皇位についたからです。

蘇我氏6世紀前半から7世紀半ばまで朝廷で絶大な権力を

振るった一族です。

蘇我氏の興亡を少しだけ補足します。

蘇我氏の始祖

蘇我氏の始祖は建内宿禰ということになっています。

建内宿禰は「古事記」にも (応神天皇誕生など) 多く登場しましたが、

寿命が300年を越える架空の人物という見方が一般的です。

蘇我氏の出自については謎が多く、稲目より前のことは殆ど不明です。

(渡来人説もあります。)

蘇我氏が大臣になった時期

蘇我稲目宣化天皇の時期に大臣(オオオミ)になりました。

その頃までヤマトでは物部氏や大伴氏が強大な勢力を奮っていましたが、急速に成長した蘇我氏が現れたのです。

その背景には、

天皇家との婚姻関係があります。

稲目の2人の娘は欽明天皇に嫁ぎました。

稲目宣化天皇、欽明天皇大臣を務め、

稲目の息子である馬子敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇(途中まで)

馬子の息子である蝦夷推古天皇の大臣を引き継いでいます。

蘇我氏と物部氏の対立

古事記」では仏教伝来について触れていません

ですので、ここでもサラッとしか書きませんが、

538年または552年に仏教と仏像が百済から伝来しました

欽明天皇は仏像を祀るべきか大臣と大連に相談します。

・大臣 (蘇我稲目) → 賛成
・大連 (物部尾輿) → 反対

仏教を受け入れるかどうかでの蘇我と物部氏(と中臣氏)の対立は、

政治の主導権争いも絡んで激化

敏達天皇が崩御した時に、大臣だった蘇我馬子用明天皇を即位させたのです。

こうして、蘇我氏は外戚となり、権力の中枢に割り込みました。

忍坂日子人太子の死

推古天皇の崩御が628年であったとされており、

少なくともそれより前に

忍坂日子人太子は亡くなったと見られていますが、

没年は不明です。

蘇我氏に暗殺されたという説もあります。

蘇我氏滅亡

入鹿の館があったとされる甘樫丘 (奈良県)

甘樫丘允恭天皇の時代に盟神探湯(クガタチ) という

神明裁判が行われていた場所ですね。

(参考記事: (153) 允恭天皇 )

蘇我氏舒明天皇の御子中大兄皇子(後の天智天皇) 中臣鎌足が起こしたクーデター

乙巳の変」で蝦夷入鹿がなくなったことで滅亡します。

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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)

中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇)

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コメント一覧
  1. 才色健躾 より:

    天皇、御子を取り巻く権力の保持には相当な利害関係をも生む事ですね。
    特に御子に嫁ぐ妃は氏の繁栄には欠かせない役割ですね
    蘇我氏の台頭はやはり”仏教の輸入”と考えられます。
    織田信長公の時代、キリスト教を容認しました事と同じに宗門徒の壊滅を目論み蘇我勢力を拡大しようとされたのでは…
    その様に考えますと蘇我氏は日本人ではなく渡来人では…と考えられます。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      相当な利害関係、、、ありますよね。
      摂関政治はもとより閨中関係による政治、会社拡大などは古今東西、最も平和的な権力闘争なのでしょう。
      姫さまご自身の気持ちは置いておかれてしまっているのでしょうね。

      この数回は系譜がまとめられないほど、近親婚が多すぎ!
      近親で殺し合う場面よりはいいのですが。笑

      蘇我氏は財力や知識が多かったことからも、渡来人説に賛成です。
      急激に力をつけられたのは、あの時代、朝鮮半島から南下して、さらにヤマトに渡ってきたのではないかと思います。

      仏教の布教にも大きな功績を残しています。
      ただ、宗教の布教ってご自身は信じてなくてもできるのでしょうね。

      信長公もですが、蘇我氏(特に馬子)が仏様を拝んでいたとは思えません。
      大伴が弱体化したので、ここで物部を叩いて、ご自分が王になりたかったのではないでしょうか。

  2. さゆ より:

    欽明天皇に統一されることによって安閑天皇、宣化天皇を支持していた大伴氏が衰退。
    勢力争いは、蘇我氏と物部氏に移ったのですね。
    欽明天皇のときに物部氏よりも蘇我氏の仏教に対する意見が取り入れられ、天皇の親族にもなった蘇我氏の勢いが増したのですね。
    蘇我氏は豪族の勢力争いには勝ったけれど、天智天皇のときに宣化天皇の家系の天皇が復活。滅びてしまったのですね。
    大きな歴史の流れがわかったような気がします。
    ありがとうございました。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪

      大伴氏はヤマト王権での権力は衰退してしまいました。
      私たちが知る大伴氏は歌人ですよね。笑

      この頃、天然痘などの病気が流行して多くの人が亡くなったので仏教、神道がそれぞれ盛衰を繰り返し、結局仏教を受け入れました。

      蘇我氏の役割は大きかったけれど、日本の場合、仏教国というほどにはならず、独特の発展をしましたね。
      天智天皇の皇后は蘇我馬子の孫、持統天皇も母親は蘇我氏なので、まだ蘇我氏の力はなくなっていませんが、大分弱まっていることは確かですね。

      とにかく結婚が大切なんですね。笑

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