![(130)『古事記』応神天皇の聖誕と祈り 出産を遅らせた2つの石](https://i0.wp.com/harusantarott.com/wp-content/uploads/2022/09/9268992B-7483-4541-8183-AB38FD8AE955.jpeg?fit=400%2C297&ssl=1)
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これまでのあらすじ
神功皇后と建内宿禰は住吉三神の神託に従い、新羅親征を行いました。
そして、海を渡って帰国されました。
「古事記」における応神天皇の聖誕と鮎釣り
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応神天皇の聖誕
新羅親征を終えないうちに、神功皇后は臨月を迎えていました。
そこで石を御裳の腰にお付けになってご出産を引き延ばされ、筑紫の国でお生みになりました。
石をお付けになったのは出産を先延ばしにするための呪術だと言われています。
それで、その御子がお生まれになった地を名付けて、宇美(ウミ)といいます。
また、その御裳にお付けになった石は、筑紫国の伊斗村(イトノムラ)にあります。
宇美は現在の福岡県糟屋郡宇美町
伊斗村は福岡県糸島郡
だと言われています。
応神天皇の健やかな成長を祈って
4月上旬に筑紫の松浦県(マツウラノアガタ)の玉島里においでになって、そこの川(小河という名前の川)辺りでお食事をなさいました。
佐賀県東松浦郡浜玉町の辺り。
玉島川が流れています。
その川の中に突き出ている岩(勝門比売 カチトヒメという岩)の上においでになり、御裳の糸を抜きとり、飯粒を餌としてその川の鮎をお釣りになりました。
鮎を釣ったのは、御子の健やかな成長を祈る占いだと言われています。
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これに因んで、今(古事記編纂時)でも4月上旬に、女たちが裳の糸を抜き、飯粒を餌として鮎を釣るようになりました。
はるさん的補足 御裳にお付けになった石
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神功皇后ほどの女性でも、妊娠中に新羅まで船で行くのは不安でした。
出航する前に卵型の美しい2個の石を見つけ、肌身に抱き出産の延期を祈り
石を撫でると、不思議なことに陣痛も不安も鎮まったそうです。
帰国して無事に出産された後、子負ケ原の丘の上に神功皇后ご自身で2つの石を奉納されました。
2つの石は
「皇子産石(ミコウブイシ)」
「子産石(コウブイシ)」
と名付けられました。
また、御心と御腹を鎮められた石なので鎮懐石(チンカイセキ)と呼ばれ、
現在、その地には鎮懐石八幡宮 (夕日の写真がとても綺麗です)が建っています。
山上憶良の歌碑
万葉集に2つの石(鎮懐石)を詠んだ山上憶良の歌があります。
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筑前国 怡土郡深江(イトノコホリフカエ)村
子負(コフ)原 海に臨める丘の上に 二石あり
公私の往来に 馬より下りて おろがまず
(一部抜粋)
現代訳
筑前国 怡土郡深江(イトノコホリフカエ)村 子負(コフ)原の海に臨む丘の上に2つの石がある。
街道を通る人は馬から下りて両膝をついて拝礼しない人はいない。
江戸時代にこの歌を記念して、鎮懐石八幡宮の境内に歌碑が建てられ、今も残っているそうです。
古事記の他の記事
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中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)