(131)『古事記』香坂王と忍熊王の反乱 神功皇后は卑弥呼か?
琵琶湖

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これまでのあらすじ

仲哀天皇の皇后である神功皇后新羅の親征から帰国後、品陀和気(ホンダワケ 後の応神天皇)を出産なさいました。

「古事記」における香坂王と忍熊王の反乱

皇位をめぐる戦いが勃発

仲哀天皇を中心とした系譜

出産を終えた神功皇后品陀和気命(ホンダワケ 後の応神天皇)大和に帰ろうとしました。

その時、神功皇后は、

品陀和気の異母兄にあたる、香坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)が後継者争いをしようとしている

という情報をつかみます。

神功皇后品陀和気を待ち構えて殺害し、天皇の座を奪い取ろうという物です。

仲哀天皇が崩御した後、天下は(胎内から)赤ちゃんの品陀和気(応神天皇)が治めていることになっています。

つまり実質、神功皇后建内宿禰が天下を治めている状態です。

ですが、香坂王忍熊王の母方の家の方が天皇家に近い一族ですので、彼らの不満はもっともだといえるでしょう。

そこで、神功皇后香坂王忍熊王の目を欺くために、

仲哀天皇の亡骸を運ぶ船を用意し、その喪船に品陀和気を乗せ、品陀和気は死亡したという噂を流しました。

オールカラー地図と写真でよくわかる古事記」p.153より

香坂王忍熊王斗賀野(トガノ)で待ち伏せ、戦況を占うウケイ狩りをしました。

すると、怒った大きなが現れて、香坂王を食い殺してしまいました。

忍熊王伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍に立てて郡勢を構えて、神功皇后に攻撃を加えようとしました。

琵琶湖に身を投げた忍熊王

忍熊王神功皇后に戦いを仕掛けると、皇后も迎え撃ち、忍熊王を劣勢に追い込みました。

忍熊王は一旦敗走しましたが、山城国で軍を立て直し、皇后の軍と一進一退の攻防戦となります。

膠着状態を脱するために、皇后軍が一計を案じます。

神功皇后の軍
皇后が戦死したので降伏する

と、偽情報を相手に伝え、忍熊王軍がスキを見せたときに一気に攻めます。

忍熊王軍はチリジリになって逃げますが、皇后軍逢坂(オウサカ)まで追い、楽浪(ササナミ)で壊滅させました。

忍熊王
いざ我君(アギ)
振熊(フルクマ)が 
痛手負わずは
鳰鳥(ニオドリ)の
淡海(アフミ)の海に
潜(カヅ)きせなわ

現代語訳
さあ我が将軍よ
振熊の痛手はもうたくさんだ
あの鳰鳥(ニオドリ)のように
近江の海(琵琶湖)に
すっぽり入ってしまおうよ
鳰鳥(カイツブリのこと)

忍熊王伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)と共に琵琶湖に入水し、自ら命を絶ちました。

はるさん的補足 神功皇后は卑弥呼か?

日本書紀」では天皇以外で唯一、神功皇后(169年〜269年)に独立した項目を持って登場させています。

そして「日本書紀」の神功皇后の記述に

倭の女王が魏の皇帝に貢物を贈った。

という「魏志倭人伝」の記事が引用されています。  

卑弥呼 安田靱彦

そのため、神功皇后邪馬台国卑弥呼ではないかという説が生まれました。

卑弥呼は239年に中国・魏の皇帝から「親魏倭王(シンギワオウ)」の称号を与えられた女王です。

呪術で民を支配し、が政治を助けたことも記されています。

このことから、

卑弥呼神功皇后の他に倭比売(日本武尊の叔母)や天照大御神ではないかという説もありますが、邪馬台国の場所と共に謎のベールに包まれています。

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