(179)『古事記』第31代 用明天皇(聖徳太子の父) ・物部氏の衰退

法隆寺 (奈良県)

これまでのあらすじ

第29代 欽明天皇 の御子、第30代 敏達天皇 が崩御します。

敏達天皇に御子はたくさんいましたが、

蘇我氏の意向で欽明天皇蘇我稲目の娘の子、用明天皇が次期天皇となります。

「古事記」における用明天皇

敏達天皇の弟

橘豊之日命(タチバナノトヨヒメノミコト)は、

池辺宮(イケノヘノミヤ:奈良県桜井市)で天下を治め、

第31代 用明天皇となりました。

天下を治め統治した期間は3年 (585年?〜587年?) でした。

蘇我稲目の娘 意富芸多志比売

この用明天皇宗賀之稲目宿禰大臣(ソガノイナメノオオオミ 蘇我稲目)の娘の

意富芸多志比売(オホギタシヒメ)を娶り生んだ御子は、

多米王(タメノミコ)

お1人です。

間人穴太部王

また、庶妹(ママイモ:腹違いの妹)の

間人穴太部王(ハシヒトノアナホベノミコ:欽明天皇の御子)を娶り生んだ御子は

上宮之厩戸豊聡耳命(カミツミヤノウマヤトノトヨトミミノミコト :聖徳太子)

久米王(クメノミコ)

植栗王(エクリノミコ)

茨田王(ウマラタノミコ)

の4人です。

飯女之子

また、当麻之倉首比呂(タギマノクラノオビトヒロ)の娘の

飯女之子(イヒノコ)を娶り生んだ御子は

当麻王(タギマノミコ)

須加志呂古郎女(スガシロコノイラツメ)

のお2人です。

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用明天皇は、丁未年(587年)の4月15日に崩御しました。

用明天皇は生年がわかっていないため、享年は不明です。

死因は疱瘡(天然痘) です。

用明天皇陵

用明天皇陵と治定されている春日向山古墳

御陵は、石寸(イワレ)の掖上(ワキガミ:奈良県桜井市池之内)にありましたが、

後に科長(シナガ)の中陵(ナカノミササギ:大阪府南河内郡太子町大字春日)

に移しました。

古事記」における用明天皇の記述は以上となります。

用明天皇陵であれば、天皇陵として最古の方墳

宮内庁が用明天皇陵と治定している古墳の

陵名

河内磯長原陵(コウチノシナガノハラノミササギ)

・墳名

春日向山古墳(カスガムカイヤマコフン)です。

方墳

古墳というと「前方後円墳」が有名ですが、

日本の古墳で1番多いのは「円墳」次いで「方墳」です。

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日本武尊が征伐した、出雲建 (イズモタケル)の墓

四隅突出型墳丘墓という方形でした。

(参考記事:(114) ヤマトタケルの出雲征伐・四隅突出型墳丘墓)

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最大の「方墳」垂仁天皇の叔父 (または兄弟)

倭日子命(ヤマトヒコ)の墓です。

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その他、有名な方墳は

・推古天皇陵

・蘇我馬子の墓とされている石舞台古墳

などです。

はるさん的補足 法隆寺建立・物部氏の衰退

法隆寺

用明天皇天皇 仏教に帰依

法隆寺は「聖徳太子ゆかりの寺院」です。

しかし法隆寺の建立を発願したのは用明天皇だったと言われています。

用明天皇は天然痘を患い、ご自身の病気を治すために仏像と寺院の建立を誓願されました。

けれども願いが叶うことなく、即位して2〜3年で亡くなってしまいます。

そこで推古天皇聖徳太子がその誓願を引き継いで

607年法隆寺と「薬師如来像」を建立されたということです。

物部氏の衰退

仏教を受け入れるか、反対派の物部氏推進派の蘇我氏は対立していました。

(参考: (178) 敏達天皇・蘇我氏の興亡 )

祭祀権政界で重要な要素だったからです。

用明天皇仏教に帰依したことによって、蘇我馬子が喜んだといいます。

それまで日本古来の神々の祭祀権を握っていた物部氏は、仏教の興隆によって権力が後退しました。

古事記の他の記事

古事記の他の記事はこちらからご覧ください。

上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)

中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇 未完)

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