(108)『古事記』番外編 野見宿禰と当麻蹴早の角力 埴輪の誕生

これまでのあらすじ

第11代垂仁天皇の時代は様々なものの起源が誕生しました。

・正妻を1人にする婚姻制度

アマテラス(天照大御神)を伊勢神宮に祀る(垂仁天皇の娘「ヤマトヒメ(倭姫命)」の功績

・強制的な殉死の禁止

この記事では「古事記」には出てこないけれど「日本書紀」には書かれている「ノミノスクネ(野見宿禰)」と埴輪の物語を紹介します。

野見宿禰

野見宿禰と当麻蹴早(月岡芳年 明治時代)

野見宿禰の系譜

野見宿禰は「アマテラス(天照大御神)」と「スサノオ(須佐男命)」のウケイによって生まれ出雲国造の祖となった「アメノホヒ(天菩比神)」の14代子孫と「新撰姓氏録」に記されています。

宿禰」というのは貴人を親しみ尊んでいう敬称です。

「タイマノケハヤ(当麻蹴早)」との相撲

日本書紀」によると垂仁7年奈良県葛城市当麻に住んでいた当麻蹴早という人物が生死を問わない勝負を求めていることを知った垂仁天皇出雲から野見宿禰を呼び寄せ、角力(相撲)を取らせます。

角力とは相撲の原型のようなのですが、今のようにキチンとしたルールはなく、

どちらかが戦えなくなるまで戦い続ける物だったようです。

その結果、野見宿禰当麻蹴早の腰を踏み折り勝ちました。

垂仁天皇当麻蹴早が持っていた当麻の地を没収して野見宿禰に与えました。

垂仁天皇、殉死を禁ずる

垂仁天皇の叔父(古事記では兄弟)である「ヤマトヒコ「(倭日子命)」が亡くなった時、近習の者たちが生き埋めにされたことに心を痛めた垂仁天皇は殉死を禁じます。

野見宿禰出雲から土師(ハジべ)100人を呼び寄せて、土で

人馬の埴輪を作らせると

野見宿禰
人に代わってこの土物を埋めてください。

と、垂仁天皇に献上します。

多いに喜んだ垂仁天皇野見宿禰に土師の職を与え、子孫の土師が代々、天皇の葬祭を司る(古墳を造る)ことになりました。

ただし、埴輪については創作か

垂仁天皇がいつ頃の天皇なのか正確にはわかっていませんが実在したとすると3世紀後半から4世紀前半ころの天皇だったとされています。

一方埴輪は筒状の円筒埴輪が4世紀ごろ、人や馬を象った形象埴輪は5世紀ごろ作られたことが判明されています。

ですから、野見宿禰垂仁天皇に埴輪を献上したというのは創作だとされています。

また、後世の人々が巨大古墳を見て、この任にあたった土師の祖先である野見宿禰はさぞ力持ちであったと推測して角力で圧勝したという物語が創作されたと思われます。

はるさん的補足 当麻蹴早が角力を行った理由

日本書紀」では「サホビコの反乱」(「日本書紀」では沙穂彦と表記)のすぐ後に角力を行ったという記述があります。

恐らくこの反乱で多くの皇族や市民が亡くなったことから、葛城の豪族だった当麻蹴早鎮魂の意味を込めて角力を行ったのではないかと言われています。

上:「サボヒコ」の反乱の舞台 下:当麻氏がいた葛城市

今回で垂仁天皇のお話しは終わります。

次回から第12代景行天皇(ヤマトタケル「倭建命」の父)のお話しが始まります。

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コメント一覧
  1. 才色健躾 より:

    この度は番外編との事。しかしながら古墳マニアの私には貴重なお話しです。
    陵墓を担うノミノスクネは知り得ておりました
    しかし埴輪の事までは聞き及びません。
    創作なのかも知れません…しかし埴輪製造の経緯の疑問を払拭出来ました事は勉強に為りました。
    次回よりは景行天皇ですね。
    現実味もより一層、楽しみにしています。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      野見宿禰と当麻蹴早はマンガになったそうで、記紀神話の中では有名人らしいのです。
      なので取り上げてみました。
      創作の部分はあると思いますが、当時の混乱や振興勢力の分布がわかる逸話だと思います。
      景行天皇、お子様が80人だそうな。笑
      ヤマトタケルに遠征させて自分は何やってるんだ?って(古事記では)思ってしまいますね!

  2. さゆ より:

    市民や周りの皇族のために角力をとったとしたら、当麻蹴速は奉仕の精神があって偉いです。腰を折っただけで、元気に生涯を終えたならいいなと思います。
    出雲から来た野見宿禰も、負けられない角力で、期待に添え良かったです。土地と土師の姓が貰え、報われましたね。
    古墳は大きいので、大力のある人が祖先。野見宿禰は角力が強い。また、土師は霊と関係するから出身は出雲、、、と、連想して、野見宿禰の祖先説は人びとに受け入れられたのですね。
    埴輪提案の創作は、時代的には無理でも話としては道徳的なので人びとに伝承され、日本書紀に載ったのでしょうか?
    それとも、土師氏がかなり権力のある氏だったから、祖先の野見宿禰の功業として、日本書紀に載せるよう働きかけ、載せることができたのでしょうか?

    • harusan0112 より:

      当麻蹴早は葛城の豪族だったようなので、鎮魂をしたかったという説を信じたいのです。
      野見宿禰は古事記にも出てこないし、埴輪を作ったという説は否定されているので、どんな人物かはわからないのですね。
      ただ、古事記編纂当初に土師氏が力を持っていたのは事実で、埴輪を作って殉死の代わりにしたのも土師の祖先だと主張したかったのかもしれません。
      古事記は時代考証まではしていないので、垂仁天皇の頃であろうと溶け込ませたと考えることも十分にできると思います。

  3. Yoshi より:

    生き埋めにされた人々を不憫に思って殉死を禁じた・・・やっぱり垂仁天皇ええ人やー
    失礼しました埴輪の話も本当であってほしい気がします。すごく良いシステムをたくさん作った良い人なんだ!と。

    相撲(角力)は現代においても「神事」なんですよね。とても神聖なものですし、先の反乱の犠牲者への鎮魂の意味という
    はるさんの考察はなるほどと思います。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      確認ですが、当麻蹴早氏の考察は私の独自なものではなく、研究者たちの考察です。
      でも、相撲を神事に押し上げたのもお二人だったと想像すると嬉しいですね。

  4. 久子 より:

    垂仁天皇の改革、スゴいですね!
    妻を一人にする、殉死を禁ずることに、周囲の反発がさぞかしあったのでは?
    殉死は明治にもまだありましたし、妻一人と言うのもなかなか難しいのに、この頃にこの発想!すごい!

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      妻を1人にするのではなく、(正妻)皇后を1人にしようということなのです。側室、妾はたくさんいるのです。泣
      殉死は乃木希典もなさいました。
      でも、垂仁天皇の時代までは強制的に埋められていたようなので、そこは改善されてよかったですね。
      世界的にも生き埋めから、埴輪のような物になる流れだったようです。

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