(97)『古事記』崇神天皇 皇妃と皇子女 殉死と埴輪
倭日子墓「桝山古墳」(奈良県)

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これまでのあらすじ

神武天皇から第9代開化天皇までの実在が疑問視される天皇の系譜と解説が終わりました。

多くの豪族の子女と結婚をし、生まれた子供たちの多くも豪族や国造の祖先となりました。

第10代 崇神天皇

崇神天皇

第10代崇神天皇以降は実在した可能性が高い天皇だと言われています。

まだまだ神話的なエピソードは出てきますが、歴史書として捉えられる面も増えてきます。

古事記」は崇神天皇に関しての記述の前に

皇妃と皇子女の紹介から始まります。

「古事記」における「皇妃と皇子女」

この記事に出てくる皇族がた

崇神天皇磯城(シキ)の水垣宮(ミズカキノミヤ)で天下を治めました。

崇神天皇

紀伊国の造の娘である「トオツアユメマクワシヒメ(遠津年魚目々微比売)」と結婚して

・「トヨキイリヒコ(豊木入日子命)」(上毛野、下毛野の祖先)と
・「トヨスキイリヒメ(豊入日売命)」(伊勢大神の宮に仕え祀りました)が生まれました。

🍃

また、尾張連の祖先「オオアマヒメ(意富阿麻比売)」と結婚し

・「オオイリキ(大入杵命)

・「ヤサカノイリヒコ(八坂之入日子命)」と2人の娘、
計4人の御子が生まれます。

🍃

そして(オジの)「オオビコ(大毗古命)」の娘(つまり従兄弟の)

ミマツヒメ(御真津比売命)」と結婚し、

・「イクメイリヒコイサチ(伊玖米入日子伊沙知命)」(後の第11代垂仁天皇)
・「イザノマワカ(伊耶能真若命)
娘3人最後に

・「ヤマトヒコ(倭日子命)」が生まれました。

崇神天皇の御子は男王7人、女王5人、計12人です。

ヤマトヒコ(倭日子命)」が亡くなった時、初めて墓に殉死の人を並べました

(崇神天皇のお話しはまだまだ続きます。)

はるさん的補足「古事記」唯一の殉死

今城塚古墳から出土された埴輪 (大阪府)

古事記」では殉死という言葉は「ヤマトヒコ(倭日子命)」の場面でしか使われていません。

しかし、権力者の死に伴う殉死者や馬を殉葬という形で生き埋めにすることは古代では珍しいことではなかったようです。

日本書紀」によると、生き埋めはあまりにも残虐であるという理由から、倭日子の兄である垂仁天皇が強制的な殉死を禁止にしたそうです。

また「日本書紀」には垂仁天皇に「ノミノスクネ(野見宿禰)」が生き埋めをする代わりに埴輪を立てることを提案したと書かれています。

ただし「ノミノスクネ」が生き埋めを廃止したという件は、創作だろうとする研究者が多いです。

古事記」では、これからも「自主的に」後を追って亡くなる方のお話しは出てきますが

強制的な」生き埋めは一応「ヤマトヒコ(倭日子命)」をもって終了となりました。

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中巻(神武天皇から応神天皇)

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コメント一覧
  1. 才色健躾 より:

    私は古墳時代を最も得意とします
    しかし埴輪を土に埋める所以は知り得ませんでした
    また一つ勉強になりました。
    しかしながら”生き埋め”とは古代人の命の価値は何事なのでしょうか
    現代の研究は現代人の考え方。本来は全く違う生活習慣の様に思えます。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      古墳お好きでらっしゃいましたね。
      崇神天皇陵など、幾つかの前方後円墳に参りましたが、ヘリにでも乗らない限り、どんな形かわかりませんね。笑
      あたり前か。
      強制的に生き埋めって埋められる人はもちろん、埋める人も怖いでしょうね。
      生き埋め廃止の理由が、残虐だということの他に、優秀な家臣や官僚の命が失われるのが勿体ないということなので、そこそこ身分が高い方も埋められていたようですね、、、。

  2. まいこ より:

    生き埋めは辛いとは思いますが、古代の人々にとってきっと国や天皇と一緒に壮大に祭られることは本人とったも家族にとってもとても名誉なことで清々しい気持ちであったかもしれないと
    そして周りの人にアピールすることも出来たのでは?と想像します。
    崇神天皇が遠い国の方と結婚れてて国の広がりに驚きました。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      今とは全く違う命の重さなんでしょうね。
      名誉と捉える人もいたでしょう。
      でもせめて遺族が厚遇されるといいけれど、必ずしもそうではなかったようなんです。泣

  3. さゆ より:

    野見宿禰、結構面白い人物だと思います。
    埴輪の制を案出したと言うのは、考古学的に土師氏の創作だろうということですが、角力をとれるほど力が強かったことは、疑わなくていいかもしれないですね。
    土師氏の祖先かどうかも、もしかしたら土師氏の創作かもしれないのですね。
    記述どおりだと、野見宿禰の子孫は、土師氏から菅原氏が出ることと、相撲で大事な任を務める相撲司家の祖先なので、知っていることや人が出てきて嬉しいです。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪♪
      野見宿禰は強くて人気があるので、埴輪の件は創作かも知れません。
      でも相撲→土俵(古墳?)→土→埴輪
      と、繋がるかも知れませんね。
      野見宿禰は11代の垂仁天皇のところで出てきます!

  4. みゆき より:

    第10代崇神天皇以降は実在した可能性が高いのですね!本当に知らない事ばかりで、興味深いです。
    埴輪を産み出した人々はえらい❢やはり生き埋めは残酷だという根強い意見もあったような気がします。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      崇神天皇もわからないことは多いのですが開化天皇までより記述もグッと増えます。
      生き埋めは残酷ですね。強制的となるとなおさら、、、。
      ほんとに埴輪は素晴らしい発見だと思います。

  5. harusan0112 より:

    あきこ コメント
    殉死で一気に背筋が涼しくなりました。
    いつの世も安穏とはしていられませんね。

  6. harusan0112 より:

    ありがとうございます♪
    殉死、それも強制的となると、背筋が涼しくなりますね。

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