(153) 『古事記』允恭天皇 氏姓の選正 盟神探湯(神明裁判)とは?
盟神探湯が行われた甘樫丘 (奈良県高市郡明日香村)

これまでのあらすじ

仁徳天皇が亡くなると、長男の履中天皇が即位しました。

次いで三男の反正天皇、それから四男の允恭天皇と、兄弟による皇位継承が行われました。

「古事記」における氏姓( ウジカバネ) の選正

允恭天皇
私には長く患っている病があり、皇位を受け継ぐことはできない


と、言って允恭天皇ははじめ天皇の位を辞退しました。


しかし、皇后をはじめ多くの官人たちが強く願い申したため、皇位に就くことになりました。

天皇即位の報せが届くと、新羅の国王が、81隻の船に貢ぎ物を乗せて天皇に献上しました。

この貢物の大使が金波鎮漢紀武コンハチンカンキム)という名前の者で、

薬の処方をよく知っていました。

そして金波鎮漢紀武コンハチンカンキム)が天皇の病を治療したのです。

金波鎮漢紀武 のお名前について

が姓

波鎮漢が官位

紀武が名前か?と考えられています。

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允恭いんぎょう天皇は、

天下のあらゆる人たちの氏姓が誤っていることをお嘆きになって、

甘樫(アマカシ) の丘(現在の奈良県明日香村の甘樫丘)言八十禍津日( コトヤソマガツヒ) の崎で、

神に誓って熱湯に手を入れる神事の甕(カメ)を据えて、天下のたくさんの役人たちの氏姓の真偽を正し、お定めになりました。

この方法を盟神探湯( クガタチ) といいます。

補足の所で詳しく説明しています。

また、

長男木梨軽太子(キナシノカルノミコ)御名代(ミナシロ)として軽部を定め、

皇后御名代として刑部(オサカベ)を定め、

皇后の妹田井中比売(タイナカツヒメ)御名代として河部(カワベ)を定めました。

御名代とは

一定の役割をもって大王(天皇)に奉仕することを義務付けられた天皇直属の集団のことです。

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允恭天皇の御寿命は、78歳です。

甲午年 (キノエウマノトシ 西暦453年) の1月15日に崩御なさいました。

御陵は、河内国の恵賀長枝(エガノナガエ 大阪府藤井寺市)にあります。

允恭天皇陵と治定されている古墳

市野山古墳 (画面 右上 大阪府藤井寺市)

允恭天皇陵と治定されている古墳の噴名は市野山古墳です。

応神天皇陵と同じ、古市古墳群の一つで、全国で19番目に大きい古墳です。

はるさん的補足 盟神探湯(クガタチ)

甘樫坐神社の「盟神探湯神事」で行われた寸劇 (写真は飛鳥観光協会さんからお借りしました)

盟神探湯(クガタチ)とは何か

古代日本で行なわれていた神明裁判のことで、ウケイの一種です。

簡単に言えばウソ発見器ですね。

裁判方法は

・神に誓いを立てる

・熱湯に手を入れる

・ウソを付いている人は火傷をする

・正直者は火傷をしない

というものです。

盟神探湯(クガタチ)の目的

允恭天皇の時代、

上下の秩序が乱れ、昔の姓(カバネ)を失ったり、わざと高い氏(ウジ)を名乗る者が出てきました。

(恐らく、金銭で売買されていたものと思われています。)

そこで允恭天皇はその乱れを正すために、盟神探湯を行ったとされています。

「日本書紀」に記される盟神探湯(クガタチ)のやり方

日本書紀」に

泥を釜に入れて煮沸し、手を入れて泥を探る

と具体的に記されています。

実際には

当時は履中天皇反正天皇からの允恭天皇と兄弟間で皇位が継承されていました。

彼らの母は葛城氏出身

外戚となって権勢を誇っていた葛城氏が他の大豪族を排除するのが目的だったのではないかという説もあります。

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実際には釜に水を入れて火を点けます。

盟神探湯は位の高い順に手を入れ、

最初のうちは釜の湯がそれ程熱くないので火傷をしないけれど、

だんだん熱湯になるので、

位が下になると火傷は免れないという仕組みだったようです。

ですから、ウソの氏姓を名乗っていた下の位の者は、手を入れる前に白状したようです。

「古事記」の他の記事

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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)

中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇 未完)

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