これまでのあらすじ
第19代允恭天皇は即位をすると、盟神探湯(クガタチ) という神明裁判を行い、その頃乱れていた氏姓制度を正しました。
古代朝廷による支配の基盤だった氏姓制度
今回は古代朝廷における氏姓を解説します。
氏( ウジ)、、、首長的地位の氏上を中心に、直系・傍系の血縁者で構成される集団です。
大和朝廷の支配者層を形成し、土地や人民を領有しました。
主な氏、、、大伴(オオトモ)・物部( モノノベ)・蘇我・葛城など。
姓( カバネ)、、、氏に与えられた地位(仕事)を表す名前です。
主な姓、、、臣・連・伴造
朝廷内の上下関係を示すものとして用いられました。
允恭天皇の氏姓改革
允恭天皇が即位した頃、氏姓制度が乱れていました。
氏姓制度が乱れるということは国家秩序が混乱すると考え、改革を断行したのです。
氏姓制度がきちんと整ったのは
実際に氏姓制度がきちんと整ったのは、天武天皇の時代のことです。
天皇と葛城氏の関係
これまでにも何度か葛城氏というお名前が登場していますね。
葛城氏は葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を祖とする奈良盆地の南西部に住んでいた豪族でした。
5世紀ころ、葛城氏は天皇家と双璧をなす存在でした。
葛城襲津彦の娘である石之日売が生んだ履中天皇、反正天皇、允恭天皇の時代は、事実上天皇家と葛城氏の両頭政権の性格を帯びていたと言われています。
石之日売は皇后としては初の非皇族出身者でした。
つまり天皇家としては葛城氏の娘を皇后にすることで両頭政権の安定を図らざるを得ない状況だったことがわかります。
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ところが、允恭天皇は葛城氏から妃をとりませんでした。
この辺りから、天皇家と葛城氏の蜜月関係が終わりを迎え始めます。
葛城襲津彦の死後、跡を継いだ玉田宿禰(タマダノスクネ)が允恭天皇に討たれ、
玉田宿禰の子、円(ツブラ)は安康天皇を殺した眉輪王をかくまったために雄略天皇に討たれました。
( 参考記事 (158) 終わらない悲劇 允恭天皇の御子たちの殺し合い)
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こうして葛城氏は衰退し、6世紀になると葛城周辺の古墳も中型の物になります。
朝廷の大臣の地位には平群(ヘグリ)氏が就き、それ以降葛城氏が高官に就くことはありませんでした。
ですので雄略天皇に円が殺されたことを持って、葛城氏の滅亡とされています。
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しかし、雄略天皇は円の娘と結婚して第22代清寧天皇が生まれており、その後も葛城系の天皇はまだ生まれます。
はるさん的補足 「タカミムスビ」は葛城氏の祖神だったという説
歴史学者の鳥越憲三郎氏は葛城氏が葛城(奈良県)を拠点とする「葛城王朝」を築いたとして、葛城一族の発祥の地である「高天(タカマ)」こそが「高天原」のルーツだろうと推定しています。
また、葛城氏の神社である「高天彦神社」で祀られている高御産巣日神(タカミムスビ)も、元来、葛城一族の祖神だったという説を述べています。
日本で2番目に誕生した神「高御産巣日神(タカミムスビ)」は天照大御神と並ぶ天皇家の最も重要な祖神です。
鳥越氏の説を信じるならば、
古事記の作者は天皇家が葛城氏から土地や人民だけでなく、祖神や高天原神話まで取り込んだことになります。
この説について多くの議論があります。
しかし、葛城氏同様に、建内宿禰(タケウチノスクネ)を始祖とする蘇我氏も天皇家に滅ぼされており、彼らが持っていたはずの氏族の神話や伝承が何も伝わっていないことが一層、想像とロマンを掻き立てるのです。
「古事記」の他の記事
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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)