(149)『古事記』履中天皇即位 皇妃と皇子女 即位の祝宴で弟が放火
石上神宮 (奈良県)

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これまでのあらすじ

民を思い、治水工事などを行なった仁徳天皇の時代は「聖帝の御世」といわれました。

その仁徳天皇が83歳で崩御されます。

履中天皇

仁徳天皇の御子の履中天皇は、伊波礼(イワレ)若桜の宮(現在の奈良県桜井市池之内)で天下を治めました。

この天皇が、葛城の曾都毘古(ソツビコ)の子の葦田宿禰(アシダノスクネ)の娘黒比売命(クロヒメノミコ)を娶って生んだ子は、

市辺之忍歯王(イチベノオシハノミコ)

次に御馬王(ミマノミコ)

次に飯豊郎女(イイドヨノイラツメ)です。

御子は三人になります。

墨江中王の反逆

履中天皇難波の宮(仁徳天皇の宮)にいらした時、大嘗祭に出席され、後の酒宴で大御酒を呑み、浮かれ良い気分で寝てしまいます

大嘗祭とは

前の天皇が亡くなり、新しい天皇が即位した時に行われる新嘗祭のことです。

すると、その弟の墨江中王(スミノエノナカツミコ)が、天皇を殺そうと思い、御殿にを放ちました。

🍂「日本書紀」に書かれている墨江中王が反乱を起こした理由 

日本書紀」によると、履中天皇黒比売を妻に迎えいれようとして、

弟の墨江中王を使者として送り、婚礼の日取りなどを決めさせようとしました。

ところが、墨江中王履中天皇の名を名乗り、黒比売とまぐわってしまいます。

このことが履中天皇に知られてしまいました。

墨江中王天皇から責められることを恐れ、先に天皇を討とうとしたそうです。🍂

その時、倭漢値(ヤマトのアヤノアタイ)である阿知値(アチノアタイ)がひそかに天皇を助け出して、お馬に乗せて大和へお連れしました。

仁徳天皇の御子たちの皇位継承争い この記事は①と②について書かれています(地図でスッと頭に入る古事記 日本書紀p95からお借りしました)

履中天皇は、多遅比野(タジヒノ:現在の大阪府羽曳野市)に着いた所で目を覚まし、

履中天皇
ここはどこだ

と仰せになったので、阿知値は、

阿知値
墨江中王が御殿に火を着けました。
そこでお連れして大和に逃げています。

と申し上げました。

そこで天皇は歌を詠みました。

履中天皇
🍶多遅比野に
寝むと知りせば
立薦(タツゴモ)も
持ちて来ましもの
寝むと知りせば
🍶

現代語訳:

多遅比野で寝ると(野宿する)知っていたなら、
立薦(筵 ムシロ:ござの様なもの)を持ってきたのになあ。
寝ると知っていたなら〜。
立薦

波邇賦坂(ハニウザカ:現在の大阪府羽曳野市の坂)に到着し、難波宮を遠望すると、その火がまだ燃えていました。

そこで天皇はまた歌を詠みました。

履中天皇
🍶波邇布坂 我が立ち見れば 
かぎろひの 燃ゆる家群(イエムラ)
妻が家のあたり
🍶

現代語訳:

波邇布坂に私が立って見てみれば、
盛んに燃えている多くの家。
妻の家の辺りだなあ。

そして、天皇たちは進んで行きました。

そして、履中天皇は、大阪の山の入り口までやってきた時、一人の女に出会いました。

すると、その女は、

武器を持った大勢の人達がこの山を塞いでおります。
当麻(タギマ)から迂回して進んで行ってくださいませ。

と申し上げました。

これを聞いて天皇は次のように歌を詠みました。

履中天皇
🍶大坂に 遇あふや女人(オトメ)を 
道問へば 直には告(ノ)らず 
当麻道(タギマジ)を告る🍶

現代語訳:


大阪で出逢った女人に道を問うと
真っ直ぐにとは言わず、
当麻へ行く道を告げたよ。

そこで天皇たちは当麻を上って、石上神宮にいらっしゃいました。

はるさん的補足 石上神宮

石上神宮の鳥居 「布都御魂大神」

即位を祝う宴で弟に命を狙われるお話しにも関わらず、

履中天皇のおっとりした?性格からか緊迫感が感じられない場面です。

このような履中天皇ですが、しっかり者の阿知値という忠臣がいてくれたおかげで、石上神宮に逃げることができました。

石上神宮といえば建御雷神(タケミカヅチ)の剣(布都御魂 フツノミタマ 剣の神)を祀る神社です。

石上神宮はこの頃軍事面で活躍していた物部氏の根拠地でした。

履中天皇一行は、武器とともに物部氏の軍事力を頼ったのだと思われます。

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「古事記」の他の記事

これまで書けている記事はこちらからご覧ください。

上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)

中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇)

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コメント一覧
  1. 履中天皇は悠然とされた性格なのですね。
    この度のお話を「物部氏の軍事力に頼る」より大嘗祭に出席、大御酒を呑み、寝込むまで遡り読みました。
    余りにも辻褄は合い作られたお話しではないかと察します(私見です)
    物部氏。次なるお話しは物部氏の偉大さを示される語りでは…と思いました。

    • ありがとうございます♪
      古事記編纂時の天皇(現在に至るまで)は系譜上応神天皇の傍流なので、少し悪目に創作されているように思います。
      特に葛城家出身の石之日売との子供達は酷い書かれ方をしているように思います。

    • この時代、腹違いの兄弟は生まれながらにして敵だったのですね。政権争い、女性の取り合い等、紛争の火種は尽きなかったようですね常に死と隣り合わせで大変な時代ですね

      • ありがとうございます♪
        同腹の兄弟といえども、殺し合いをせねばならなかったのですね。
        黒比売は大豪族である葛城家の姫なので、どうしても結婚したかったのでしょう。
        立薦というのも、寝るためではなく、敵から見えなくするために立てるためのものという解釈もあり、この記事から窺い知る履中天皇より緊迫感漂う一生だったという説もあります。

  2. 履中天皇の別名はイザホワケでしょうか。
    危険に気付かなくても、家臣が対処してくれる、家臣に恵まれた天皇でしたね。
    奈良の石上神宮に入れば、家臣も安心だったでしょうね。
    石上神宮はすごく歴史のある神社で、御神体は剣。
    サイトを見て、神使として立派な鶏が約30羽放し飼いにされているのに興味が湧きました。

    • ありがとうございます!
      履中天皇というのは後世(762〜3年)に淡海三船が付けた漢風諡号です。
      生前はイザホワケと呼ばれていたと思います。
      この記事だけ読むと、心配になる方に思えますが、いい家臣に恵まれたこともあり、政治面もなかなか立派なことをなさいます。
      石上神宮の鶏さんは大切にされているからか毛ヅヤもよく、迫力ある大きな声で鳴いていらっしゃいました。

  3. まーた妃候補を横取り話があったわけですね
    バレて逆ギレして殺そうとしてくる弟と、悠然としている天皇と。(あとほんっと、持つべくは有能な家来です)
    この時代の大阪(大坂?)は湾・川が入り組んでいて、すんなりまっすぐとは行けない、攻める側は待ち伏せするのにちょうど良さそうな地形です(地図ものすごく役に立ちます!)
    大阪と石上神宮って、なんだかんだ言ってなかなかな距離があるわけですが、敢えてそちらを回るのは物部氏を頼るから、という事なのですね。
    はてさて続きはどうなりますやら・・・

    • ありがとうございます♪

      当時は今より人口もずっとずっと少ないので、皇族も豪族も少ないのでしょう。
      ですから葦田宿禰の娘と黒比売と結婚したい皇族は多いはずですね。
      そうすれば天皇の地位が見えてきますから。

      彼らが天皇になれるかなれないかは、有能な家来がいたかどうかにかかっていたといっても過言ではないでしょう。
      阿知値は素晴らしすぎです。

      山の入り口で会う女の人というのは山の神(巫女的な)と、考えられるので、天も履中天皇の味方をしたと考えられますね。

      それにしてもいざという時の物部氏ですね。古事記に登場する以上に強い豪族だったように思います。

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