(121)『古事記』日本神話タロット剱ノ10-②日本武尊の崩御・大御葬歌
剱ノ拾 (ソード10) 「白鳥」

日本神話タロット「剱ノ拾」は「古事記」の長い範囲を一枚にまとめています。

記事がとても長くなってしまうため、(120)と2回に分けています。

これまでのあらすじ

父、景行天皇に命じられた東征を終え、美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚した日本武尊(ヤマトタケル)は、東征の時に活躍してくれた草薙の剣(別名:アメノムラクモ)を置いて伊吹山の神を征伐しに行きました。

大きなによって満身創痍となった日本武尊ですが懸命に都を目指します。

「古事記」における日本武尊の崩御と「白鳥の陵」

オールカラー地図と写真でよくわかる!古事記」(西東社)p145

日本武尊の崩御

ヤマトタケル
命が無事であった人は
平群(ヘグリ)の山の
熊白檮(クマカシ)の葉を
かんざしとして刺しなさい
お前たちよ

ともう一つ、思国歌(クニシノビウタ)を歌いました。

平群とは奈良県生駒郡平群町の矢田丘陵辺りです

また、

ヤマトタケル
愛おしい 我が家の方から
雲が立ち渡ってくるよ

と詠みましたが、この時、ご病気が急変しました。

それでもまた

ヤマトタケル
乙女の とこの傍らに
我が置き残した 大刀
その大刀よ

病が進んで今際の際まで、草薙の剣のことを忘れず、こうまで深く思いこんだ御心、

勇んだ勢いがゆるみないこと、

また、その御心がずっと後のちの世までこの御刀にとどまっていることも知られて、

とても心深く、滅多にない優れた歌である。(古事記伝)

とお歌いになり、崩御されました。

そこで残った者達は、早馬の使者を都の天皇にお届けしました。

4首の大御葬歌(オオミハフリノウタ)

訃報を受けて、大和にいらした后たちと御子たちは皆、能煩野(ノボノ)に行き、御陵を作って、田を這い回り悲しみの声を上げました。

(后たちと御子たちについては後日、日本武尊の系譜で詳しく説明します。)

后と御子たち
傍らの 田の稲の茎に
その稲の茎に 這いからまっている
山芋の蔓よ

(這い回って泣くことを表しています)

この時、日本武尊の霊魂が、大きな白い千鳥になって天に飛翔し、浜に向かって飛んで行きました。

后たちと御子たちは篠竹の刈り杭に、足が切り裂かれても、その痛みを忘れて、声を上げて泣きながら追いました。

そして

后と御子たち
浅い篠原を行くと 篠竹に腰が取られる
鳥のように空を飛んでは行かれず
足でトボトボ行く もどかしさよ

と詠みました。

篠竹

次に海水に浸かってヨタヨタ追いかける時に

后と御子たち
海に入って行くと 海水に腰を取られる
広い河に 生えている水草のように
海では 波にゆらゆらもたつくばかり

と詠み、また白い千鳥が飛んでそこの磯に止まってらした時に

后と御子たち
浜の千鳥よ 浜からはもう追って行けないので
磯づたいに追いかけます

とお歌いになりました。

この4首の歌はどれも日本武尊御葬(ミハブリ)の時に歌いました。

この4首の歌は今でも(「古事記」編纂期)

天皇の大葬の儀で歌われています。

昭和天皇大喪でも歌われました。

白鳥陵

それから白い千鳥は飛翔して河内国の志紀(大阪府柏原市辺り)にお止まりになりました。

そこで、その地に御陵を作り、鎮座申し上げました。

その御陵を「白鳥陵」といいます。

しかし、そこからまた天高く飛翔して行ってしまわれました。

日本武尊が諸国平定に巡幸なさった全てにわたり、久米直(クメノアタイ)の祖先である七拳脛(ナナツカハギ)が、ずっと調理人としてお仕え申し上げていました。

日本神話タロット 極参剱ノ拾(ソード10)

カードの意味と解説文は

(120)をご覧ください。

はるさん的補足 「古事記」におけるヤマトタケルの扱われ方

古事記」(712年編纂)や「日本書紀」(720年編纂)での

ヤマトタケル(「古事記」では倭建命と表記されています)

はあくまで景行天皇の御子です。

しかし、同じ頃にまとめられた「常陸国風土記(ヒタチノクニフドキ)」(713年編纂)には

倭武天皇(ヤマトタケルノスメラミコト)」と表記され、天皇として扱われています。

古事記」でもヤマトタケルに天皇に使われるような敬語表現が使われています。

例えば持ち物に「」という文字を付けたり、妻を「」、子を「御子」と表記しています。

また、亡くなった時は「崩御」、墓を「御陵」という言葉を使っています。

加えて天皇の大葬の儀で歌われる「大御葬歌」の起源をヤマトタケルの葬儀だと主張しているのです。

これを踏まえて考えると、景行天皇のみがヤマトタケルを蔑ろにしただけで、

古事記」の編纂者はヤマトタケル準天皇ともいえる最大の敬意を払っていることがわかります。

ちなみに「大御葬歌」については、推古天皇のころに歌われだしたのではないかと言われており、それをヤマトタケルの説話に溶け込ませたのではないかという説があります。

天地開闢からこれまでの記事

ここまでの記事はこちらからご覧ください。

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コメント一覧
  1. 才色健躾 より:

    この度もとても勉強に為りました。
    ヤマトタケルさまの扱い方に違和感を抱いておりました
    然りながら伝説ではこの様に言葉、陵墓など詳細は天皇と同様に扱われ安堵いたします。
    大葬の儀は現代まで継承されている事に驚きです。
    あらためてこの国の主は天皇であると云う事に理解しました。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      古事記の作者はヤマトタケルが大好きなようですね。
      連歌はともかく、素晴らしい辞世の歌を歌わせ、大御葬歌まで、ヤマトタケルの逸話に溶け込ませてしまいました。
      未だに天皇の大葬の儀で奏でられるのですから、大衆にも受け入れられたのでしょうね。

  2. harusan0112 より:

    キヨさんコメント

    崩御されたのちに天皇と同じ扱いをされたのは、古代日本人が自然災害や疫病の流行を怨霊の仕業だと考えるふしがあったからではないかな。
    不業の死を遂げられた皇族や、生前気の毒な立場に追いやられ気力を失い亡くなられた方を後々
    しゃや仏閣などを建立して供養されたりしていたみたいだし。
    怨恨、呪いを異常に恐れていた時代もあったようですね。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      たしかに、あれだけの太子を天皇にせずに死なせてしまったのだから、祟りを恐れたのかもしれませんね。
      平安遷都の時や天然痘が流行った時も、祟りかもしれないということで、改元したり大仏を作ったり場所を移したりしてますものね。
      でも、異常気象や天災を見てみると、神を畏れる気持ちは無くさない方が良いかもしれませんね。

  3. さゆ より:

    ヤマトタケルは、景行天皇からは、疎んじられたけれど、家来や妻子からは、慕われていたことがわかりました。家来妻子には、優しかったのでしょうね。
    広範囲の征伐に出掛け、伊吹山以外は大活躍をしたので、景行天皇と違って、その業績を認めるべきだと編者は考えたのでしょうね。
    今でも発端がヤマトタケルの歌4首が宮中儀式で引き継がれているとは、すごいです。
    白い鳥は、ハクチョウでしょうか?チドリでしょうか?
    大和の后は尾張で結婚したミヤズヒメなのでしょうか?次回が楽しみです。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      ヤマトタケルの事を疎んじていたのは景行天皇だけだったようですね。と言っても、最も愛されたい人に嫌われてしまったのですが、、、。
      ヤマトタケルは複数の英雄を一人にまとめたという説が有力ですが、功績から考えると準天皇扱いが妥当と考えたのかもしれません。
      昭和天皇の大葬でも歌われたと知った時は、本当に感動しました。
      白鳥とは白い鳥という意味で、いわゆるスワンではないようです。
      古事記では白い千鳥と表記されている場合と白鳥となっている箇所があります。
      古事記の系譜は不思議で例えば、大国主命の系譜にスセリヒメやヤガミヒメが載っていないのです。
      神に仕える巫女のような存在のヒメは載せないのかもしれませんね。

  4. ミカリン より:

    多くの人達の助力の元、勇敢に戦ってきたヤマトタケルもいよいよ命尽きるのですね。亡くなった事は無念だったかもしれませんが、景行天皇の命令で、尽きることのない征服の人生が終了して、ヤマトタケルは、景行天皇の呪縛から解放され、安らかに死を受け入れて白鳥になって飛んでいったと思いたいですね

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      本当ですね!
      ようやく戦いの緊張から解放されて、安らかに眠り、白鳥のように自由になったと思いたいですね。
      そして、こんなに妻子に愛されたのは幸せなことですね。

  5. Yoshi より:

    なるほど、ヤマトタケルは景行天皇には疎まれていたけれど、他の人々からはそうでは無かった、寧ろ慕われていたのですね。少し、いやかなり安心しました。(やはり景行天皇はヤマトタケルを脅威に思っていたのでしょうか)
    白鳥は三重県から大阪まで飛んだのですね。三重のあのあたりから大阪まで、近鉄特急だと大体1時間〜1時間半かからないぐらいですが、もちろんそんなものの無い時代に、飛ぶ鳥をずっと追いかけるのは、本当に大変だったでしょう、というかよく見失わなかったものだと。

    鳥ではないのですが&重い話になるのですが、自分の父の葬儀で「御霊移しの儀」の時に、祭主が打ちものをカン・カンと叩いた時、父の納められた棺桶から何か白いものがブワーっと立ち上るのを見たように思いました。自分には霊感は無く、そういうのは見た事なかったのですが。その時初めて「ああ、親父は本当に死んでしまったんだなあ」と実感したように思いました。なんだか追いかける・追いかけたくなるその気持ち、分かるように思います。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      ヤマトタケルは家来とのやり取りを見ても、情に篤い方だと思っております。
      ルックスもいいようですので、女性にもモテたでしょう。
      垂仁天皇の子ホムチワケの時もですが、物凄く長い距離、白鳥を追いかけますね。笑
      ヤマトタケルの場面の方が、リアルな描写だと思いましたが、三重から大阪まで、普通に考えると海がないですよね。
      だからあの和歌は後から溶け込ませたのでしょうね。
      お父様のお話し、教えてくださりありがとうございます。
      リアルですね。それをお聞きすると、ヤマトタケルの場面もとても情景が目に浮かぶようになってきました!

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