(169)『古事記』顕宗天皇 置目老媼に父の遺骨の場所を教えてもらう
馬見岡綿向神社境内 村井御前社 馬見岡綿向神社hp さんからお写真をお借りしました

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これまでのあらすじ

清寧天皇が崩御した後、皇位継承者として

履中天皇の孫であり、市辺之忍歯王 (イチノヘノオシハ) の息子である

意祁王 (オケ) と袁祁王 (ヲケ) 兄弟 が現れます

2人は皇位を譲り合いますが、弟の袁祁王が先に皇位に就くことになりました

顕宗天皇

履中天皇の御子、市辺之忍歯王の御子の袁祁王こと顕宗(けんぞう)天皇は、
河内近飛鳥宮(チカツアスカノミヤ)においでになって
8年間天下を治められました。

顕宗天皇は皇位の期間が記された初めての天皇です。

石木王(イワキノミコト) の娘の 難波王 (ナニワノミコ) と結婚なさいました。

御子はありませんでした。

近飛鳥は大阪府羽曳野市(ハビキノシ)飛鳥の地です

置目老媼 (オキメノオミナ)

即位すると天皇は、雄略天皇に殺された父、市辺之忍歯王の遺骸を
捜させました。

すると、近江国に住む卑しい老婆があらわれて訴えました。

老婆
父君の遺骸を埋めた場所は私だけが知っています。

父君は歯の形に特徴がありましたので、
掘りおこせば、
すぐにわかりますよ。

市辺之忍歯王は特徴のある八重歯でした。


そこで民を集め、土を掘り、すぐに遺骸を見つけ出しました。

そして父が殺された蚊屋野 (カヤノ) の東の山に
立派な陵をお造りし、臣下である韓帒(カラブクロ) の子らに陵の墓守をさせました。


市辺之忍歯王の陵の所在地 (滋賀県東近江市市辺町)

その後、父の遺骨を持って河内にある近飛鳥宮にお戻りになりました。

さて天皇は河内へお戻りになると、例の報告をしてきた
老女を召しだし、

顕宗天皇
よくぞ知らせてくれた。

それにしてもよく覚えていてくれたものだ。

父の弔いをすることができたのは、
ひとえにお前のおかげだ。

さかんに老女をねぎらい、「しっかりと見ておいた老女」という意味の
置目老媼(オキメノオミナ)」と名付けました。

天皇は置目老媼をそのまま皇居で召し使うこととし、
宮の近くに置目老媼の家を建て、毎日呼び出しました。

釣鐘型の鈴を御殿の戸に掛けて、老女をお呼びになりたい時は、その鈴を引いてお鳴らしになりました。

この時代の釣鐘型の鈴というと銅鐸を思い起こしますが、

天皇が大きな銅鐸を鳴らしていたとは考えられないという意見もあります

この時代の祭祀に5センチほどの馬鐸(バタク)というものがあるので馬鐸かもしれません。

日本書紀では

鈴を鳴らすのは置目

顕宗天皇は鈴の音を聞いて、置目が来ることを知った」

ということになっています。


そして顕宗天皇は歌をお作りになりました。

顕宗天皇
🍃浅茅原 (アサジハラ)
小谷 (オダテ) を過ぎて 
百伝 (モモヅタ) い
鐸響 (ヌテユラ) くも 
置目来らしも🍃

現代語訳:


浅茅原や谷を過ぎて
はるばると鈴の音が響いているよ

置目が来ているらしい

こうして長年にわたって、置目天皇にお仕えしましたが、
ある時、

置目
私はたいそう歳をとってしまいました。
故郷へ下がりたく存じます。

と申しました。

そして申し出の通りに、故郷へ帰る時、

天皇はお見送りをして歌っておっしゃいました。

顕宗天皇
🍃置目もや 
淡海 (オウミ) の置目 
明日よりは
み山隠りて 
見えずかもあらむ🍃

現代語訳:


置目や
近江の置目や
明日からは

山のむこうに隠れて
会えなくなってしまうのだな

古事記には沢山の歌謡がありましたが

顕宗天皇の歌が最後の歌謡です。

はるさん的補足 置目老媼

置目老媼は「古事記」には「近江の卑しい老婆」と書かれていますが、

日本書紀」では「臣下である韓帒の妹」ということになっています。

そして宮中を辞するときに天皇から日野の地を賜りました。

今でも、

滋賀県蒲生郡日野町にある馬見岡綿向神社内の森は「置目の森」と呼ばれており、

馬見岡綿向神社の末社の一つ村井御前社 に置目は祀られています。

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