『古事記』[序文] 「過去の回顧」口語訳と解説 序文は偽書か
太安萬侶の墓(奈良県奈良市) この写真は毎日新聞さんからお借りしました

「古事記」には序文があります。

「古事記」を編纂した太安萬侶元明天皇に献上した際の上表文とされています。

はる
上表文とは
・君主に文書を奉ることや
・その文書
のことです。

太安萬侶が実在した人物であったか、長い間疑問視されていましたが昭和54年に奈良市の茶畑で偶然墓室が発見され、その中から遺骨や真珠と共に銅板製の墓誌が見つかり実在していたことがわかりました。

墓誌には太安萬侶は現在の奈良市に住み「古事記」の編纂をし、養老7年(723年)に亡くなったことが記されています。

序文は「過去の回顧」「古事記の企画」「古事記の成立」という項目があります。

この記事では「過去の回顧」を読み解いていきます。

「過去の回顧」には「古事記」の簡単なまとめと、「古事記」を編纂した目的が記されています。

「古事記」上巻 序文 「過去の回顧」の口語訳

八咫烏「熊野本宮大社」

はる
全文の口語訳ですが( )内は私が補足しました。

(元明天皇の臣下の)安萬侶でございます。

そもそも、宇宙の初めの混沌としていてまだ生成力も形も現われなかった頃のことは、名付けようもなく、動きもなく、誰もその形状を知るものはありませんでした。

しかしながら、天と地とが初めて分かれるとアメノミナカヌシタカミムスビカミムスビの三神が、万物創造の最初の天神となり、また陰と陽の二つの気に分かれると、イザナギイザナミの二神が万物を生み出す祖神となりました。

イザナミ像 「花の窟神社」(三重県熊野市)

イザナギは、黄泉国を訪れて現世に帰り、禊ぎをして目を洗うときに日(アマテラス)月(ツクヨミ)の神が現われ、海水に浮き沈みして身を洗うと、多くの神々が出現したのです。


天地万物の発生する以前のことは不明な点が多いのですが、神代からの古伝承によって、神が国土を生み島々を生んだ際のことを知ることができます。

正しく知るところで、天の石屋戸の神事で、賢木の枝に鏡をけ、天の真名井の誓約(ウケイ)で、スサノオが玉を嚙んで吐き、こうして代々の天皇が相続くことになり、アマテラスが剣を嚙み(誓約の時、剣を噛んで神々が生まれた)、スサノオが大蛇(ヤマタのオロチ)を退治して後、多くの神々が繁栄したのです。

 その後、原の河原で神々が相談し(葦原中国を天津神が治めようという計画のこと)、タケミカヅチ

稲佐の浜に降って、オオクニヌシと交渉して葦原中国を平定することができました。

稲佐の浜(島根県出雲市)

ある時は、川から現われた荒らぶる熊の神に悩まされ、天津神の降した霊剣タカクラジが奉り、ある時は、尻尾のある人(土蜘蛛のこと)に道で遇いながら、八咫烏の導きで吉野に入られました。

(第10代)崇神天皇は夢に神の諭しを受けて天津神や国津神を崇敬され(大物主神を祀り疫病退散をしたので)賢君と称えられています。

(第16代)仁徳天皇は民家の煙を見て民を慈しまれたので、現在では聖帝と伝えられています。

(第13代)成務天皇は近江の高穴穂宮で、国郡の境を定め地方を開発されました。

(第19代)允恭天皇飛鳥宮で、氏や姓を正しく制定されました。

このように、歴代天皇の政治は、それぞれ異なり、派手なものと地味なものとの違いはありますが、古代の様子を明らかにすることによって、教えの道が廃れてしまう時には正し、今を顧みて、人道道徳の絶えようとする際の参考にならないはずはありません。

(「古事記の企画」に続く)

序文の文体

五経

序文の文体は四六駢儷体(シロクベンレイタイ)という文体で書かれています。

四六駢儷体とは

漢文の文体の一つで、主に四字・六字の句を基本として対句を用いる華麗な文体です。

漢、魏の時代に起こり唐にかけて流行しました。

日本では奈良、平安時代に盛んに用いられた文体です。

文体は長孫無忌の書いた「上五経正義表」の文体に倣ったのではないかと言われています。

上五経正義表とは

五経正義表とは五経(周易、尚書、毛詩、礼記、春秋)の注釈書。

正義とは注釈のことです。

上が付くのは長孫無忌が「五経正義」にそえて献上した上表文ということです。

はるさん的補足 序文の偽書説

太安萬侶像 多神社(奈良県田原本町)

序文は「古事記」の編纂が終了した後に編纂を行なったとされている太安萬侶が書いた挨拶文ですが、「偽書ではないか(太安萬侶が書いた物ではないのではないか)」という疑念は根強くあります。

それは

「古事記」本編は漢字で書かれているものの、「日本語で書かれた音訓混じり」であるのに対して序文は漢文らしい漢文(四六駢儷体)で書かれていることから別の人が後世書いたのではないか。

上表文なので天皇の所にあるはずなのに、誰かが持ってきたのか?

という疑問があるからです。

また私個人としては編纂した本人が書いたにしては、仁徳天皇の後に成務天皇について書かれているなど、文章が美しくても内容的に雑な面があるように感じています。

その論争は未だに続いています。

みなさんは序文は偽書だと思いますか?

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上巻(序文から海幸彦山幸彦)

中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇)

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コメント一覧
  1. この度のお話しは古事記の真髄ですね。
    そもそも古事記に対し様々な観点より“疑い”を抱こうとは誰しも思わない様に思えます
    されど“序文”の存在を知る はるさんより解説、説明、疑念を教えて頂き分からなくなりました…。
    一つ云えます事は現世に至り大事にされてきました“古事記”は間違いのない書物と云う事です。
    其れに関わる“序文”の存在は次なる発見(書物)により真意はハッキリしますね
    はるさん的補足。これ程までに知り得ます はるさん故の深意ですね。

    • ありがとうございます♪♪
      四六駢儷体なる文体で書かれているのは、太安萬侶が当時秀才文官として名を馳せていたことから太安萬侶が書いたと考えることもできますね。
      本居宣長は序文も太安萬侶が書いたであろう
      とおっしゃってます。
      成務天皇が古事記本文には殆ど触れられていないのに、仁徳天皇や允恭天皇と並んで序文に登場するのは不思議ですが、古事記本文が一部無くなってしまっているのかもしれないと思います。

  2. はるさんブログの古事記記事はやっぱり良いですね♪
    太安萬侶が実在の人物であると特定出来た・墓所墓誌が発見されたのが僕が子供の頃なんですね・・まだ最近?のように感じました。
    あと墓誌というもの・紙だったら損なわれ失われていたろうに、よくぞ銅板で残してくれてあったものだなとも。
    奈良は・・住んでいる知人が、
    「何かやろうとしたら結構いろいろ出てきたりするし、規制なんかもキツいから、再開発とか何か大きな不動産開発とかがあまりされていないんだ」みたいな事を言っていたのを思い出しました。

    こちらの序文は、そんなのがあるという事も初めて知りました。
    なんだか論文のはじめに置かれるサマリー(要旨要約)みたいだなと思いました。
    「天皇の手元にあるはずじゃ?」はともかく、「本文と序文で文体フォーマットが違う」については、本文は普段使っている・使いやすい馴染みの言葉で書いて、サマリーには「高尚な?ちょっと背伸びした?感じにはやりの漢文(大陸的・憧れ&ナウい(^_^;)感じの)」を添えた、なんて事もあるかもしれないなと。。

    • ありがとうございます♪♪
      序文はあるのですが古事記全てを知っている方でないと何のことだかわからない内容ですね。
      ()の中は私が補足しているのですが、それがないとさらに厳しいでしょう。
      太安萬侶様の実在が確認されたのが昭和
      稗田阿礼はまだ実在が確認されていませんが、いつかわかるのかもしれません。
      古事記は口伝だったとも言われていて、日本語に漢字を当てているので、同じ人物でも複数の漢字で表記されているなどざっくりした文章です。
      その点、上表文は天皇にお渡しする物なので、美しい四六駢儷体で書いたのかもしれません。
      そもそも古事記が成立したのが712年
      私たちが今読める最も古い古事記が真福寺にあったもので1372年のものだと言われています。
      つまり、古事記成立から口伝や書き写しを繰り返されて660年もたっている物を読んでいますので、本文の方に間違いは多いと考える方が自然かもしれません。

  3. 太安萬侶は装いから女の人のように見えますが、墓誌を見ると、彼になっているので、男の人なのですね。
    過去の回顧は、天皇の徳のある行いを述べて、歴代の天皇は人格者であることを伝えようとしているのですね。
    太安萬侶でなければ、どなたが書いたのでしょうね。
    奈良で、新たな証拠が出てくることを期待しています。

    • ありがとうございます♪
      太安萬侶は多家または太家の家系の男性だということがわかっています。
      元明天皇の頃の文官で中国の書物に精通した方がお書きになったのでしょうけれど、古事記の編纂が712年。
      私たちが目にしている最古の古事記が1372年の真福寺本と呼ばれるものなので、その間に書き変えられたり直されたり追加されたり消されたりがあったも考えられますね。

  4. 年代順だとすると、成務天皇→仁徳天皇→ 允恭天皇のはずが、仁徳天皇のあとに成務天皇について書かれていたりするんですね。本編と序文の文体が違うのも何人かの共著?の可能性も高いワケですね。そもそも「過去の回顧」も口語訳で意味が読み解けましたが、四六駢儷体の解釈のされ方も時代によって異なったり、何通りかあるのかもしれないですね。本文が完全な形で残っているとは限らないし、『古事記』研究は、本当に奥深い世界です!

    • ありがとうございます♪
      まさにおっしゃる通りで、何人かで書いた可能性も高いし、古事記が編纂されたのが712年ですが私達が読んでいる最古の古事記は真福寺で見つかった真福寺本で1372年のものと言われています。
      その間、口伝や書き写しで伝わっていたので、間違いは多いでしょう。
      その間違いが多いと思われる古事記を一文字ずつ研究している方がたには頭が下がります。

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