(168)『古事記』袁祁と志毘の歌垣・志毘殺害 豪族平群氏の台頭
鮪 (シビ マグロ)

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これまでのあらすじ

雄略天皇の御子である清寧天皇には子供がいませんでした。

皇位継承をする親族がおらず、履中天皇の娘である飯豊王が天皇の代行をしていると、

履中天皇の孫市辺之忍歯王の息子たちである

意祁王(オケ 兄 後の第24代仁賢天皇)

袁祁王(ヲケ 弟 後の第23代顕宗天皇)兄弟が

播磨国に隠れ住んでいたことがわかり、都に上がらせました。

歌垣と帝位の互譲

意祁王袁祁王宮 (角刺宮) に迎えられました。

これは袁祁王がまだ天下をお治めになる前のお話しです。

平群臣(ヘグリオミ)の志毘臣(シビノオミ)が歌垣の場に立って、

袁祁王が求婚しようとしていた乙女の手を取りました。

豪族の勢力分布

歌垣とは🍃

毎年決まった時期に

男女が神聖な山や海辺などに集まり

飲食や舞踏を楽しみながら皆の前で歌を掛け合う行事です。

ですから歌垣という言葉の語源は歌掛けだったという説もあります。

もとは豊作を願ったり、祝ったりする農耕儀式でした。

しかし、歌のやり取りを通して求婚したり相手を負かす目的になったと見られています。

その乙女は菟田首(ウダノオビト)等(正確にはわからないけど) の娘で、名は大魚(オフヲ)といいます。

すると、袁祁歌垣に立ちました。

そこで、志毘臣シビノオミ 平群氏)は歌を詠みました。

志毘臣
🍃大宮の 
彼(ヲト)つ端手(ハナデ) 
隅傾(スミカタム)けり🍃

現代語訳:


御殿の、
あっちの軒端(ノキバ 片方の隅)
が傾いていないか

軒端 (のきば)

このように歌い、その歌の末(下の句)を求めました。

歌垣は相手が歌い終わる前に返しの歌を歌い始めます。

袁祁ヲト 後の第23代顕宗天皇)がその末を詠みます。

袁祁
🍃大匠(オオタクミ) 
拙劣(ヲジナ)みこそ 
隅傾(スミカトフ)けり🍃

現代語訳:

大工の腕が悪いから
隅が傾いているのだ
(古いわけではない)

そこで、志毘臣は、また歌を詠みました。

志毘臣
🍃王(オオキミ)の 
心を緩(ユラ)み 
臣の子の 八重の柴垣 
入り立たずあり🍃

現代語訳:


王(オオキミ)の心
が緩んでいるので
臣下の子を妻にしようとしても

幾重にも囲んだ柴垣に
入って来れないのだ

また、王子(ミコ:袁祁王)が歌を詠みました。

袁祁
🍃潮瀬(シオセ)の 
波折(ナヲ)りを見れば 
遊び来る 
鮪(シビ)が端手(ハタデ)に 
妻立てり見ゆ🍃

現代語訳:

浅瀬の潮(波)が折れるのを見れば、
遊びに来た鮪(シビ:マグロ)の片鰭(ひれ)に、
私の妻が立っているのが見える。

(つまり、鮪(シビ:志毘臣)の横にいるのは、
私の妻である。
との嫌味を詠んでいます。)

それで、志毘臣はいよいよ怒って、歌を詠みました。

志毘臣
🍃大君の 
王子(ミコ)の柴垣 
八節結(ヤフジマ)り 
結(シマ)り

廻(モトホ)し 
切れむ柴垣 
焼けむ柴垣🍃

現代語訳:


大君の御子の柴垣は、
たくさんの結び目があり、
節だらけ、
そんなのは
すぐ切れる柴垣、
焼けてしまう柴垣だ

参考:柴垣 (桂離宮)

そこでまた、王子が歌を詠みました。

袁祁
🍃大魚(オオオ)よし 
鮪(シビ)突く海人(アマ)よ 
其(シ)が離(ア)れば 
心恋(ウチコボ)しけむ 
鮪(シビ)突く志毘(シビ)🍃

現代語訳:


鮪(シビ)突く海人よ、
大魚 (オフヲ) が離れて行けば
心悲しいだろう。
鮪(シビ)突く志毘臣

(マグロでも突いていればいいのだ。
志毘(シビ)は)

このような銛(モリ) を使っていたか?

このように歌を詠み合い、夜を明かし、お互いに帰りました。

志毘は袁祁の家の古さ

袁祁は志毘の名前

ディスり合っていて結局大魚がどうなったか書かれていません。

🐓

翌朝、意祁王と袁祁王の2人は相談して、

意祁王と袁祁王
おそらく、朝廷の人達は、
朝は朝廷に参り、
昼には志毘の家の門に集まっているのだろう。

きっと今は、志毘は寝ている。
また志毘の門には人もいない。
今攻めてしまわなければ、
後からだと難しくなる。

と話し合い、すぐに軍を起こし志毘臣(しびのおみ)の家を取り囲み、殺してしまいました。

皇位を譲り合う兄弟

こうしてその後、2人の王子たちは、互いに天下を譲り合いました。

そこで意祁王は、その弟の袁祁王に、

意祁王
針間(ハリマ)志自牟(しじむ)の家に住んでいた時、
もしあなたが名前を明かさなかったら、
今、こうして天下を治め君臨する君主にはなれなかった。

これはあんたの功績である。
だから、私は兄であるけれども、
やはりあなたが先に天下をお治めるのだ。

と言い、強く譲りました。

袁祁王は、もう辞退することが出来なくなり、

先に天下をお治めることになりました。

意祁王皇太子として弟の袁祁王 (顕宗天皇) を支えました

はるさん的補足 大豪族、平群氏の台頭

雄略天皇の時代に葛城氏の力が弱まったことは何度か紹介してきました。

(参考記事:(154) 允恭天皇の氏姓選正 葛城氏の興亡)

葛城円(カツラギツブラ)雄略天皇のよって殺害された後、

大臣に任命されたのが平群真鳥 (ヘグリマトリ 志毘臣の父) だと言われています。

平群真鳥雄略天皇清寧天皇顕宗天皇仁賢天皇の時代に大臣を務めました。

ですから、この歌垣が行われた頃は平群氏葛城氏に代わって台頭していたと考えられます。

一方、意祁王と袁祁王の2人は葛城氏の血を引く兄弟です。

葛城氏は弱体化していたとはいえ、葛城氏の血を引く兄弟が突如現れ、

皇位についてしまうことは

平群氏にとって脅威でもありました。

(系譜を作ってみると、全員親戚に見えますが)

意祁王と袁祁王の2人ももちろんそれを承知だったでしょう。

ですから、理由を付けて志毘臣を葬ったものと思われます。

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