(171)『古事記』第24代仁賢天皇・雄略天皇の娘と結婚した理由
仁賢天皇

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これまでのあらすじ

市辺之忍歯王 (イチノベノオシハ) の次男である袁祁王(ヲケ:顕宗天皇(けんぞうてんのう)即位し、市辺之忍歯王の陵を造りました。

そして父親を殺した雄略天皇陵少し壊すという復讐をします。

これを持って安康天皇の時代から続いた凄惨なドラマが幕を閉じました。

古事記」に書かれている物語はここまでです。

この後、仁賢天皇から推古天皇まで( 「欠史10代」と呼ばれる ) は、

古事記」には簡単な系譜だけしか書かれていません。

それは「古事記」(712年編纂) がその名の通り

古い時代を記す

ための本で、仁賢天皇以降は「近代史」と捉え、役目を終えた、とする説が有力です。

仁賢天皇

袁祁王(ヲケ:顕宗天皇)の兄の意祁王(オケ)は、

石上(イソノカミ 現在の奈良県天理市田部町辺りか)の広高宮(ヒロタカノミヤ)において天下を治め、

第24代 仁賢(ニンケン) 天皇となりました。

仁賢天皇が、雄略天皇の御子春日大郎女カスガノオオイラツメ 雄略天皇の系譜には記載がない女性との子)を娶り、生んだ御子は、

高木郎女(タカキノイラツメ)

財郎女(タカラノイラツメ)

・久須毘郎女(クスビノイラツメ)

・手白髪郎女(タシラカノイラツメ:後の第26代、継体天皇の皇后)

・小長谷若雀命(オハツセノワカサザキノミコト:後の第25代、武烈天皇

・真若王(マワカノミコ)

の6人。

春日大郎女雄略天皇の系譜に記述がない皇女です。

日本書紀」によると、春日大郎女母は采女

(天皇や皇后のお食事など、身の回りの世話をする女官) でした。

雄略天皇とたった一夜で身籠り、やがて春日大郎女を出産したため、

雄略天皇は自分の子どもであることを疑い、

養育しませんでした。

しかし、春日大郎女が成長するにつれ、雄略天皇によく似た姿になったために認知され、

皇女となり、その母親は雄略天皇妃となりました。

また、丸邇日爪臣(ワニノヒツメノオミ)の娘の糠若子郎女(ヌカノワクゴノイラツメ)を娶り生んだ御子は、

・春日小田郎女(カスガノオダノイラツメ)です。

仁賢天皇の御子は、合わせて7人になります。

この中で小長谷若雀命が、次に天下を治めることになります。

古事記」における

仁賢天皇の記述は以上です。

日本書紀」には

仁賢天皇は幼い頃から才気煥発で、年齢を経るにしたがって

温厚な人柄になったと書かれています。

仁賢天皇陵

古事記」には仁賢天皇の御陵の記載はありませんが、

現在では大阪府藤井寺市青山にある

埴生坂本陵(ハニュウノサカモトノミササギ)に治定されています。

墳名は野中ボケ山古墳です。

野中ボケ山古墳 (大阪府藤井寺市)

はるさん的補足 仁賢天皇が雄略天皇の娘と結婚した理由

仁賢天皇の父、市辺之忍歯王雄略天皇に殺害されました。

そのため仁賢天皇弟の顕宗天皇と共に播磨まで逃げ、辛い時代を過ごしました。

上京してからは雄略天皇の墓を少し破壊するなど、深い恨みがあったように見えました。

それなのに、なぜ雄略天皇の娘と結婚したのでしょうか。

それは仁賢天皇傍系の出身と捉えられているためのようです。

雄略天皇の系統が直系とされており、直系の皇女を皇后に迎え入れることで

正統性を強めたと考えられています。

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中巻(神武天皇から応神天皇)

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