これまでのあらすじ
「古事記」の最後は「欠史10代」と呼ばれる、簡単な系譜しか書かれない天皇が続きます。
前回は仁賢天皇についてでした。
今回は、仁賢天皇の皇子のお一人である武烈天皇のお話しです。
武烈天皇
仁賢天皇と春日大郎女(カスガノオオイラツメ)の間に生まれた御子の小長谷若雀命(オハツセノワカサザキノミコト)は、
長谷の列木宮(ナミキノミヤ:奈良県桜井市出雲)において、天下をお治め
第二十五代、武烈天皇(ブレツテンノウ)となりました。
天下を治めた期間は8年でした。
「古事記」に御年は書かれていませんが、
武烈天皇(489〜506年)は18歳で崩御されたといわれています。
この武烈天皇には太子(ヒツギミコ)がおりませんでした。
そこで、天皇の御子代(ミコシロ:皇子の代わりとした子)として小長谷部(オハツベ)をお定めました。
御陵は、片岡(カタオカ)の石坏岡(イワツキノオカ:奈良県香芝市今泉ダイゴ)にあります。
武烈天皇が崩御し、皇位につくべき皇子がおりませんでしたので、
第15代、応神天皇の5世の孫の袁本杼命(オホドノミコト:後の第二十六代、継体天皇)を、
近淡海国(チカツオオミノクニ:滋賀県)からご上がらせて、
手白髪命(タシラカミノミコト)と結婚させて、天下をお授け奉りました。
「古事記」における武烈天皇の記述は以上です。
継体天皇が手白髪郎女とご結婚されたのは、
仁賢天皇が雄略天皇の娘とご結婚したのと同様に
傍系である継体天皇が直系である手白髪郎女を皇后に迎え入れることで正統性を強めたものと思われます。
武烈天皇陵
武烈天皇の御陵は片岡(カタオカ)の石坏岡(イワツキノオカ:奈良県香芝市今泉ダイゴ)にあります。
陵名は傍丘磐坏丘北陵(カタオカノイワツキノオカノキタノミササギ)で、墳名は新山古墳です。
はるさん的補足 後世に創作された暴君ぶり
「日本書紀」には武烈天皇の暴君ぶりが描かれており、
時折「史上最悪、最恐の天皇」などと言われてしまうことがあります。
例えば
・妊婦の腹を裂いて胎児を見た
・生爪を剥いだ人に山芋を掘らせた
・民が貧困に喘いでいても気に留めることなく美食を口にした
・淫らな音楽を愛した
などです。
これらの話しを面白おかしく伝える物も見かけますが、
「創作された又は誇張された」という説が有力です。
なぜ暴君ぶりを創作されたか
なぜ、「日本書紀」は武烈天皇を暴君に仕立てたのでしょうか。
「日本書紀」が編纂された時代(720年)は中国の儒教思想の影響を受けていたからではないかと言われています。
「論語 (儒教思想) 」は応神天皇の時代に和邇(ワニ 王仁とも書きます) によって百済からもたらされました。
儒教には「不徳な君主は子孫が絶える」
という思想があるので、
子孫の絶えた武烈天皇を暴君に仕立て、
後に続く継体天皇が継承者として正統であると主張しているのです。
儒教思想 易姓革命
儒教思想に基いた考え方で中国で王朝が交替することを易姓 (エキセイ) 革命といいます。
王朝が交替すること
「易姓」は支配者の血統が変わること
「革命」は天命、帝が変わることです。
新王朝を善とするための後付けのような形で、
前王朝の最後の王を暴君に仕立てる方法を「日本書紀」は模倣したと考えられます。
武烈天皇の暴虐ぶりは何を参考に創られたか
武烈天皇の暴君ぶりは「韓非子」「呂子春秋」「史記」などに登場する暴君たちをモデルにしたと言われています。
暴君たちの例
・夏(カ) の桀王 (ケツオウ)
・殷の紂王 (チュウオウ)
・酒と女に溺れる
・背骨が曲がった者の背中を折り裂く
→斉(サイ)・魏(ギ)・楚(ソ)に滅ぼされる
このような方々をモデルにしたのではないかと言われています。
この3人についても、今では彼らの暴君ぶりは創作であろうと言われています。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)