これまでのあらすじ
国内外の乱がありましたが、欽明天皇が即位し、多くの御子をもうけました。
「古事記」における敏達天皇
欽明天皇の御子の沼名倉太玉敷命(ヌナクラフトタマシキノミコト)は、
他田宮(オサダノミヤ:奈良県桜井市)で天下を治め、
第30代 敏達天皇となりました。
天下を治めた統治した期間は14年 (572年?〜584年?) です。
推古天皇 (2番目の皇后)
敏達天皇が、庶妹( ママイモ:腹違いの妹)の
豊御気炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト 後の第33代 推古天皇)を娶り生んだ御子は
・静貝王(シズカイノミコ)またの名は貝蛸王(カイタコノミコ)
・竹田王(タケダノミコ)またの名は小貝王(オカイノミコ)
・小治田王(オハリダノミコ)
・葛城王(カツラギノミコ)
・宇毛理王(ウモリノミコ)
・小張王(オハリノミコ)
・多米王(タメノミコ)
・桜井玄王(サクライユミハリノミコ)
の8人です。
推古天皇は
比呂比売命が亡くなった後、皇后に、
静貝王 (貝蛸王) はのちに聖徳太子妃となりました。
小熊子郎女・比呂比売 (最初の皇后)
また、伊勢大鹿首(イセノオオカノオビト )の娘の
小熊子郎女(オグマコノイラツメ 采女)を娶り生んだ御子は
・布斗比売命(フトヒメノミコト)
・宝王(タカラノミコ)またの名は糠代比売王(ヌカシロノヒメノミコ)
のお2人です。
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また、息長真手王(オキナガノマテノミコ)の娘の
比呂比売命(ヒロヒメノミコト)を娶り生んだ御子は
・忍坂日子人太子(オシサカノヒコヒツギノミコ)またの名は麻呂古王(マロコノミコ)
・坂騰王(サカノボリノミコ)
・宇遅王(ウジノミコ)
の3人です。
比呂比売命は
最初の皇后でしたが、敏達天皇が即位して4年で亡くなりました。
老女子郎女と結婚
また、春日中若子(カスガノナカツワクゴ)の娘の
老女子郎女(オミナコノイラツメ)を娶り生んだ御子は
・難波王(ナニワノミコ)
・桑田王(クワタノミコ)
・春日王(カスガノミコ)
・大俣王(オオマタノミコ)
の4人です。
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敏達天皇の御子は17人になります。
敏達天皇の御子 忍坂日子人太子の系譜
「古事記」は推古天皇までですから、舒明天皇は「古事記」を超えています。
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「古事記」の編纂は天武天皇の遺志によるものです。
父帝の舒明天皇を記すことによって自らの正統性を強調したかったと思われます。
その中の忍坂日子人太子(オシサカノヒコヒツギノミコ)が、
庶妹の田村王(タムラノミコ)またの名は糠代比売命(ヌカシロノヒメノミコト)
小熊子郎女との皇女
宝王(タカラノミコ)またの名は糠代比売王(ヌカシロノヒメノミコ)
と書かれた女性と同一人物です。
を娶って生まれたのが
・岡本宮にて天下を治めた第34代 舒明天皇
・中津王(ナカツノミコ)
・多良王(タラノミコ)
の3人です。
岡本宮の場所は
奈良県高市郡明日香村の雷丘・奥山・岡寺辺り
の3つの説があります。
また、漢王(アヤノミコ)の妹の
大俣王(オオマタノミコ)を娶り生んだ御子は
・知奴王(チヌノミコ)
・桑田王(クワタノミコ)の併せて二柱です。
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また、庶妹の玄王(ユミハリノミコ)を娶り生んだ御子は
・山代王(ヤマシロノミコ)
・笠縫王(カサヌイノミコ)
のお2人です。
この忍坂日子人太子(オシサカノヒコヒツギノミコ)の御子すべて併せて7人になります。
敏達天皇は、甲辰年(584年)の4月6日に崩御しました。
敏達天皇陵 天皇陵最後の「前方後円墳」
敏達天皇の御陵は、
川内の科長(シナガ:大阪府南河内郡太子町太子)にあります。
陵名は
河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
墳名は
太子西山古墳です。
宮内庁は太子西山古墳の被葬者を
敏達天皇および石比売 (敏達天皇の母 欽明天皇の皇后)の合葬と治定しています。
先に埋葬されていた石比売の陵に敏達天皇を合葬したと治定されていますが、
(2〜3世紀頃のものと見られる) 円筒埴輪が発掘されるなど、
時代的に矛盾していることもあり敏達天皇陵ではないのではないかという説もあります。
もし、敏達天皇陵であれば、最後の前方後円墳となります。
はるさん的補足 蘇我氏の台頭
ご覧のように敏達天皇の皇后の御子
忍坂日子人太子は天皇になれませんでした。
それは敏達天皇が崩御すると、蘇我氏の血を引く御子たちが皇位についたからです。
蘇我氏は6世紀前半から7世紀半ばまで朝廷で絶大な権力を
振るった一族です。
蘇我氏の興亡を少しだけ補足します。
蘇我氏の始祖
蘇我氏の始祖は建内宿禰ということになっています。
建内宿禰は「古事記」にも (応神天皇誕生など) 多く登場しましたが、
寿命が300年を越える架空の人物という見方が一般的です。
蘇我氏の出自については謎が多く、稲目より前のことは殆ど不明です。
(渡来人説もあります。)
蘇我氏が大臣になった時期
蘇我稲目は宣化天皇の時期に大臣(オオオミ)になりました。
その頃までヤマトでは物部氏や大伴氏が強大な勢力を奮っていましたが、急速に成長した蘇我氏が現れたのです。
その背景には、
天皇家との婚姻関係があります。
稲目の2人の娘は欽明天皇に嫁ぎました。
・稲目は宣化天皇、欽明天皇の大臣を務め、
・稲目の息子である馬子は敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇(途中まで)
・馬子の息子である蝦夷が推古天皇の大臣を引き継いでいます。
蘇我氏と物部氏の対立
「古事記」では仏教伝来について触れていません。
ですので、ここでもサラッとしか書きませんが、
538年または552年に仏教と仏像が百済から伝来しました。
欽明天皇は仏像を祀るべきか大臣と大連に相談します。
・大臣 (蘇我稲目) → 賛成
・大連 (物部尾輿) → 反対
仏教を受け入れるかどうかでの蘇我と物部氏(と中臣氏)の対立は、
政治の主導権争いも絡んで激化。
敏達天皇が崩御した時に、大臣だった蘇我馬子が用明天皇を即位させたのです。
こうして、蘇我氏は外戚となり、権力の中枢に割り込みました。
忍坂日子人太子の死
推古天皇の崩御が628年であったとされており、
少なくともそれより前に
忍坂日子人太子は亡くなったと見られていますが、
没年は不明です。
蘇我氏に暗殺されたという説もあります。
蘇我氏滅亡
蘇我氏は舒明天皇の御子中大兄皇子(後の天智天皇) と中臣鎌足が起こしたクーデター
「乙巳の変」で蝦夷と入鹿がなくなったことで滅亡します。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)