これまでのあらすじ
聖帝の時代と言われた仁徳天皇の時代の後は、葛城氏出身の石之日売との御子が3代続けて即位しました。
「古事記」における木梨之軽太子と衣通王
この時代、とても美しい女性のことを衣通姫(ソトオリヒメ)と呼んでいたようです。
服を着ていても内側からの光輝く美しさが透けて見えるようだという意味です。
允恭天皇の皇妃である忍坂之大中津比売(オシサカノオオナカツヒメ)の妹も
衣通姫とよばれる才色兼備の女性でした。
今回は允恭天皇の御子の軽大郎女(カルノオオイラツメ 通称 衣通王( ソトオリノミコ) たちの物語です。
一般的に有名なのはこちらの物語で、宝塚でも上演されました。
允恭天皇は長男の木梨之軽太子(キナシノカルノヒツギノミコ)を、皇位継承者として定めてありました。
木梨之軽太子と衣通王の恋愛
しかし允恭天皇が崩御されてから木梨之軽太子が、まだ即位されてない間に、
軽太子は同母妹の軽大郎女(カルノオオイラツメ 通称 衣通郎女・衣通王 ソトオリノミコ)と禁断の愛を結び、
歌いました。
山高み 下樋(シタビ)をわしせ
下どいに 我が泣く妻を
昨夜(コゾ)こそは 安く肌触れ🍃
現代語訳:
山田を作り山が高いので
通水菅が地面下を走るように
人目を忍んで通いに
私が妻問いする妹を
忍び泣きして泣く
私のことを想う妻を今夜こそは
心ゆくまで肌を触れ合っている
この時代、父親が同じであっても母親が違えば結婚は許されていました。
けれども木梨之軽太子と衣通王(ソトオリノミコ)は
同じ母親から生まれた御子でした。
歌の中の昨夜というのは、
夜明け前に帰宅した男の感懐だから昨夜という表現となっていると思われます。
これは志良宜歌(シラゲウタ)です。
また歌います。
たしだしに 率寝(イネ)てむ後は
人は離(カ)ゆとも
うるはしと
さ寝しさ寝てば
刈薦(カリコモ)の
乱れば乱れ
さ寝しさ寝てば🍃
現代語訳:
笹の葉に
霰がしたしたと打つように
確かに 共寝できた後ならば
官人たちの心が自分から離れ去っても
ええままよ
いとしいので
供寝さえできたら
天下が乱れるなら乱れよ
共寝さえできたなら
これは夷振(ヒナフリ)の上歌です。
人民の心が穴穂御子に
こうしたことがあって、多くの官人たちや天下の民は、
軽太子に背を向けて、弟の穴穂御子(アナホノミコ 後の安康天皇)に心を寄せました。
この世情に、軽太子は恐れをなして、大前小前宿祢大臣(オオマエオマエノスクネノオオオミ)の家に逃げ込んで、武器を作り不穏な情勢に備えました。
その時に作った矢は、その矢の先を銅で作りました。
それでその矢を軽箭(カルヤ)といいます。
そして穴穂御子も武器を作りました。
この矢は現在 (古事記編纂時の8世紀前半のこと) も使われる矢です。
この矢を穴穂箭(アナホヤ)といいます。
穴穂箭は鉄鏃 (テツヤジリ) をつけた矢です。
銅鏃 (軽太子が作った軽箭) は5世紀中葉に姿を消し、
鉄鏃は6世紀以降も作られました。
鉄鏃のほうが威力がありました。
まず軍を起こしたのは穴穂御子で、大前小前宿祢の家を取り囲みました。
穴穂御子が家の前に着いてくと、門の所で大雨が降りました。
大前小前宿祢、木梨之軽太子を裏切る
そこで穴穂御子は歌って詠まれます。
かく寄り来ね
雨たち止めぬ🍃
現代語訳:
大前小前宿祢の
金具飾り門の蔭我の如くに
寄って来い
大前小前宿祢よ
ここで雨の止むのを一緒に待とう
(私が門の下まで寄って来たように、
大前小前よ
家から出てここに来なさい)
この時に、その家の主の大前小前宿祢が、穴穂御子に同意と恭順のしぐさで手を振り上げ、膝を打ち、舞踊り歌いながら、穴穂御子の許に参上しました。
落ちにきと 宮人響(トヨ) む
里人もゆめ🍃
現代語訳:
宮廷の人が
袴を結ぶ紐に着けた
小鈴が落ちたと
宮人たちがうろたえている
我が里人よ
慎重に慎重に
この歌は宮人振です。
このように歌いつつ穴穂御子の許に参り
同母兄の御子に兵士を向けなさいますな。
もし兵を向けになさると、
必ず世の人が笑うでしょう。
私が拘束してお引き渡しをしましょう。
と申し上げました。
そこで穴穂御子は、軍を解散しました。
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そして大前小前宿祢は、軽太子を拘束し伴い参上し穴穂御子に引き渡してしまいました。
その軽太子は拘束されて、歌って言います。
いた泣かば 人知りぬべし
波佐の山の 鳩の
下泣きに泣く🍃
現代語訳:
( 天高く飛ぶ雁のような)
軽の乙女よ(衣通王)
あなたがひどく泣くと
人が気づくでしょう。
波佐の山の 鳩のように
ク、クと忍び泣きに
泣いている。
波佐の山とは
奈良県高市郡高取町観覚寺または船倉の辺りか?
また、歌って言いました。
したたにも 寄り寝て通れ
軽嬢子ども🍃
現代語訳:
軽の乙女(衣通王) よ
しっかりと 寄って
寝てからお行きなさい。
軽の乙女ら
木梨之軽太子は伊予に流刑に
そして 穴穂御子は木梨之軽太子を、伊予の温泉 (道後温泉) に流刑にしました。
流刑されようとした時に、軽太子が歌います。
鶴(タズ) が音(ネ) の
聞こえむ時は
我が名問はさね🍃
現代語訳:
天高く飛ぶ
鳥も伝言の使者鶴の声が
聞こえたならば
私の名を告げ
私の消息を聞いてほしい
この三首の歌は、天田振 (アマタブリ 歌謡曲のこと)です。
また 歌って言います。
島に放らば
船余り
い帰りこむぞ
我が畳ゆめ
言をこそ 畳と言はめ
我が妻はゆめ🍃
現代語訳:
大君である私を
島に放遂したなら
必ず帰って来るぞ
それまで私の座席の畳は
慎んでそのままに
言葉で畳というけれど
まことは私の妻
おまえが慎んで私の無事を斎(イワ)ってくれ
この歌は、夷振(ひなふり)の片下(カタオロシ) です。
※夷振(ひなふり)の上歌は上の方にあった「🍃笹葉〜」ですね。
この流刑が記録に残っている日本最初の流刑です。
兄を恋い慕う衣通王
その衣通王が、兄であり夫である軽太子に歌を献上をしました。
あひねの浜の
かき貝に 足踏ますな
明かして通れ🍃
現代語訳:
あいねの浜の蠣の貝殻に
足を踏みにならないように
夜が明けてから
お発ちになって
それからまた、太子を恋い慕う気持ちに耐え切れずに、太子の後を追って行った時に歌って言いました。
日長くなりぬ
山たづの 迎へ行かむ
待つには待たじ
此処に 山たづと云うは
是れ 今の造木( ミヤツコギ) ぞ🍃
現代語訳:
あなたのお出かけから
長い日が経ちました
お迎えに行きます
このまま待つのでは
待ちきれません。
再会と心中
そして衣通王が、軽太子の所に追って道後温泉に到着した時に、軽太子が待ちきれずに、歌います。
大峰(オホヲ)には 幡張りたて
さ小峰(ヲヲ)には 幡張りたて
大小よし 仲定める
思ひ妻あはれ
槻弓(ツクユミ)の
臥(コヤ)る 臥(コヤ)りも
梓弓 立てり立てりも
後も取り見る
思ひ妻あはれ🍃
現代語訳:
泊瀬山の
高い丘には旗を振り立て
低い丘には旗を張り立て
大丘と小丘よ
そのように自分たちも
夫婦の仲と決めている
いとしい妻よ
ああ臥している時も
起きている時も
行く末も
ずっと見守っていく
いとしい妻よ
また、歌を詠まれました。
上つ瀬に 斎杙(イクイ)を打ち
下つ瀬に 真杙(マクイ)を打ち
斎杙には 鏡を掛け
真杙には 真玉を掛け
真玉なす
我が思う妹
鏡なす
我が思う妻
有りと 言はばこそよ
家にも行かめ 国をも偲(シノ) はめ🍃
現代語訳:
泊瀬川の
上流には斎い清めた杙を打ち立て
下流には同じ聖なる杙を打ち立て
清めの杙には 鏡を取り付け
聖なる杙には 玉を取り掛ける
その立派な美しい玉のように
私を大事に思う妻よ
その澄んで明らかな鏡のように
私が大事に思う妻よ
おまえがそこに居ると言うならば
おまえの家を訪れよう
故郷を偲ぼうが
今おまえはここに来て
私と一緒だ
このように歌って、二人は心中をしました。
そして、この二首は詠歌です。
はるさん的補足 「日本書紀」における衣通姫伝説
「日本書紀」では衣通姫だけが道後温泉に流されたことになっています。
木梨之軽太子は皇太子という身分なので流刑に出来なかったのか、都に留まりました。
穴穂御子との皇位継承戦争に敗れ、木梨之軽太子が自害をするのは、衣通姫が道後温泉に流されてから20年も経ってからです。
「日本書紀」には心中をしたという物語はありません。
「古事記」の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)