これまでのあらすじ
東征を続けていた日本武尊が海路で走水を通ろうとすると海が荒れて進めませんでした。
すると妻の弟橘比売(オトタチバナヒメ)が自ら入水し、海神を鎮め、波は穏やかになりました。
日本武尊はさらに戦い、帰京しようとして足柄にいた時、弟橘比売を思い「あづまはや」とため息をつきます。
東国の国造任命
日本武尊一行は甲斐国(山梨県)に行き酒折宮に滞在されました。
日本武尊は歌を詠みます。
幾夜か寝つる
意味:新治(ニイバリ、現在の茨城県筑西市)筑波と通り過ぎて幾夜寝たことだろう
日には十日を
意味:指折り数えますと 夜は九夜
日は十日でございます
お側で火を焚く老人が答えて歌いました。
このように日本武尊と老人が二人で一首の和歌を詠んだという伝説があります。
これが日本最初の連歌だと言われています。
また、「火を焚く人」は「古事記」では
実は身分が高かったり教養があった(けれど火を焚いていた)ということを表すために使われる表現です。
後に出てくる市辺之忍歯王の王子(オケとヲケ)も逃亡先で火を焚いていました。
(参考記事:(167) 逃亡王子(オケとヲケ)名乗り、王家に復帰する)
日本武尊はこの老人の機転を誉めて、東(アズマ)の国造の地位を与えました。
美夜受比売と結婚
その後日本武尊は、甲斐から信濃(長野県)を越えて信濃の坂の神を平定します。
そして尾張(愛知県)に戻り、以前結婚の約束をしていた美夜受比売(ミヤズヒメ)の元に行きました。
美夜受比売はご馳走とお酒でもてなします。
ところが美夜受比売の着物の裾に月経の血がついていました。
鋭く尖った新月の鎌のような姿で渡る白鳥
その長く伸びた首のように弱くか細い
たおやかな腕を
抱きしめたい 共寝したいと思うけれど
あなたが着ておいでの羽織りの裾に
月が出てしまっているとは
と心配なさいましたが、美夜受比売が
我が大君よ
新たな年が来て過ぎて行くと
新たな月は来て去って行きます
あなたを待ちきれないで
私の着ている 羽織りの裾に
月が出たのでしょうよ
(意味:太陽のようなあなたを追いかけて、月が出たのです。
だから今夜結婚しましょう)
と仰ったので二人は結婚なさいました。
古事記に出てくる月経
古事記には月経を思わせる場面が2箇所あります。
この日本武尊と雄略天皇の場面です。
日本武尊の時代
日本武尊のお話しは2世紀ころなのではないかと言われています。
このエピソードでもわかるように、月経というのはケガレでも禁忌でもなく、むしろ神に巫女として仕える上での資格と考えられていました。
月経が始まると女性は特別な小屋にこもり(他の人と食事を別にとり)神を迎えました。
月経が穢れたものではなく、神に召された者として、神との交わりを持つためです。
小屋は神聖な樹木のそばに建てられました。
その樹木は多くの場合、槻の木でしたので小屋は「槻屋(ツキヤ)」と呼ばれていたようです。槻とは今の欅のことです。
人々が共同体を作って力を合わせて様々な物を生産し、共有していた時代、
女性の体に流れる血(月経)はケガレどころか神への畏れと結び合った神聖な物だったのです。
雄略天皇の時代
ところが、同じ古事記でも後に出てくる第21代雄略天皇の時には月経の意味合いが変わって来ます。
雄略天皇が欅の木の下で宴会をしていた時に、三重の采女(ウネメ)が天皇の御盃を両手で高く捧げて献上しました。
その時、欅の葉が御盃に入ってしまいましたが、采女には見えなかったのでそのまま献上してしまったのです。
すると、雄略天皇は怒って采女を殺そうとしました。
(采女は殺されません 参照:(165)三重の采女 雄略天皇崩御)
これを読むと、
日本武尊は器が大きいけど、
雄略天皇は、、、ちっちゃい?
と思いませんか?
確かに雄略天皇は短気ですが、そればかりが原因ではありません。
雄略天皇は5世紀半ば頃の天皇だと言われています。
欅の木はこの頃にはケガレた月経の象徴とされていたのです。
日本武尊の時代(2世紀)から雄略天皇の時代(5世紀)の間に大和朝廷による国土の統一がなされ中国の封建思想の影響を受け、
月経はケガレや禁忌の存在に変化したのです。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)
古事記には出てきませんが
古事記には出てきませんが、山梨県の笛吹市(甲府の近く)に柚ノ木熊野神社があります。
この熊野神社さんにはヤマトタケルが東征の折、休息をされたと伝わっています。
また、ヤマトタケルの息子若武彦王が居住したとも伝えられているそうです。