![(168)『古事記』袁祁と志毘の歌垣・志毘殺害 豪族平群氏の台頭](https://i0.wp.com/harusantarott.com/wp-content/uploads/2022/12/24894039_s.jpg?fit=640%2C426&ssl=1)
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これまでのあらすじ
皇位継承をする親族がおらず、履中天皇の娘である飯豊王が天皇の代行をしていると、
履中天皇の孫で市辺之忍歯王の息子たちである
播磨国に隠れ住んでいたことがわかり、都に上がらせました。
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歌垣と帝位の互譲
意祁王と袁祁王は宮 (角刺宮) に迎えられました。
これは袁祁王がまだ天下をお治めになる前のお話しです。
平群臣(ヘグリオミ)の志毘臣(シビノオミ)が歌垣の場に立って、
袁祁王が求婚しようとしていた乙女の手を取りました。
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歌垣とは🍃
毎年決まった時期に
男女が神聖な山や海辺などに集まり
飲食や舞踏を楽しみながら皆の前で歌を掛け合う行事です。
ですから歌垣という言葉の語源は歌掛けだったという説もあります。
もとは豊作を願ったり、祝ったりする農耕儀式でした。
しかし、歌のやり取りを通して求婚したり相手を負かす目的になったと見られています。
その乙女は菟田首(ウダノオビト)等(正確にはわからないけど) の娘で、名は大魚(オフヲ)といいます。
すると、袁祁も歌垣に立ちました。
そこで、志毘臣(シビノオミ 平群氏)は歌を詠みました。
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彼(ヲト)つ端手(ハナデ)
隅傾(スミカタム)けり🍃
現代語訳:
御殿の、
あっちの軒端(ノキバ 片方の隅)
が傾いていないか
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このように歌い、その歌の末(下の句)を求めました。
歌垣は相手が歌い終わる前に返しの歌を歌い始めます。
袁祁(ヲト 後の第23代顕宗天皇)がその末を詠みます。
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拙劣(ヲジナ)みこそ
隅傾(スミカトフ)けり🍃
現代語訳:
大工の腕が悪いから
隅が傾いているのだ
(古いわけではない)
そこで、志毘臣は、また歌を詠みました。
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心を緩(ユラ)み
臣の子の 八重の柴垣
入り立たずあり🍃
現代語訳:
王(オオキミ)の心
が緩んでいるので
臣下の子を妻にしようとしても
幾重にも囲んだ柴垣に
入って来れないのだ
また、王子(ミコ:袁祁王)が歌を詠みました。
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波折(ナヲ)りを見れば
遊び来る
鮪(シビ)が端手(ハタデ)に
妻立てり見ゆ🍃
現代語訳:
浅瀬の潮(波)が折れるのを見れば、
遊びに来た鮪(シビ:マグロ)の片鰭(ひれ)に、
私の妻が立っているのが見える。
(つまり、鮪(シビ:志毘臣)の横にいるのは、
私の妻である。
との嫌味を詠んでいます。)
それで、志毘臣はいよいよ怒って、歌を詠みました。
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王子(ミコ)の柴垣
八節結(ヤフジマ)り
結(シマ)り
廻(モトホ)し
切れむ柴垣
焼けむ柴垣🍃
現代語訳:
大君の御子の柴垣は、
たくさんの結び目があり、
節だらけ、
そんなのは
すぐ切れる柴垣、
焼けてしまう柴垣だ
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そこでまた、王子が歌を詠みました。
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鮪(シビ)突く海人(アマ)よ
其(シ)が離(ア)れば
心恋(ウチコボ)しけむ
鮪(シビ)突く志毘(シビ)🍃
現代語訳:
鮪(シビ)突く海人よ、
大魚 (オフヲ) が離れて行けば
心悲しいだろう。
鮪(シビ)突く志毘臣よ
(マグロでも突いていればいいのだ。
志毘(シビ)は)
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このように歌を詠み合い、夜を明かし、お互いに帰りました。
志毘は袁祁の家の古さを
袁祁は志毘の名前を
ディスり合っていて結局大魚がどうなったか書かれていません。
🐓
翌朝、意祁王と袁祁王の2人は相談して、
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朝は朝廷に参り、
昼には志毘の家の門に集まっているのだろう。
きっと今は、志毘は寝ている。
また志毘の門には人もいない。
今攻めてしまわなければ、
後からだと難しくなる。
と話し合い、すぐに軍を起こし志毘臣(しびのおみ)の家を取り囲み、殺してしまいました。
皇位を譲り合う兄弟
こうしてその後、2人の王子たちは、互いに天下を譲り合いました。
そこで意祁王は、その弟の袁祁王に、
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もしあなたが名前を明かさなかったら、
今、こうして天下を治め君臨する君主にはなれなかった。
これはあんたの功績である。
だから、私は兄であるけれども、
やはりあなたが先に天下をお治めるのだ。
と言い、強く譲りました。
袁祁王は、もう辞退することが出来なくなり、
先に天下をお治めることになりました。
意祁王は皇太子として弟の袁祁王 (顕宗天皇) を支えました。
はるさん的補足 大豪族、平群氏の台頭
雄略天皇の時代に葛城氏の力が弱まったことは何度か紹介してきました。
(参考記事:(154) 允恭天皇の氏姓選正 葛城氏の興亡)
葛城円(カツラギツブラ) が雄略天皇のよって殺害された後、
大臣に任命されたのが平群真鳥 (ヘグリマトリ 志毘臣の父) だと言われています。
平群真鳥は雄略天皇、清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇の時代に大臣を務めました。
ですから、この歌垣が行われた頃は平群氏が葛城氏に代わって台頭していたと考えられます。
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一方、意祁王と袁祁王の2人は葛城氏の血を引く兄弟です。
葛城氏は弱体化していたとはいえ、葛城氏の血を引く兄弟が突如現れ、
皇位についてしまうことは
平群氏にとって脅威でもありました。
(系譜を作ってみると、全員親戚に見えますが)
意祁王と袁祁王の2人ももちろんそれを承知だったでしょう。
ですから、理由を付けて志毘臣を葬ったものと思われます。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)