(170)『古事記』顕宗天皇の復讐 猪飼の老人殺害・雄略天皇陵の破壊
飛鳥川 (奈良県)

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これまでのあらすじ

清寧天皇が崩御した後、

皇位継承者として履中天皇の孫であり、市辺之忍歯王 (イチノヘノオシハ) の息子である袁祁王 (ヲケ) が顕宗天皇として即位しました。

顕宗天皇雄略天皇に殺害された、父 (市辺之忍歯王) の骨を探し出しました。

猪飼の老人

次に、父・市辺押歯王が殺された時、兄・意祁王(オケ)とともに逃げ出した際、途中でお弁当を強奪されたことについて、犯人が自分から名乗った「山城の猪飼」を探し求めました。

猪飼は顔面に入れ墨をしていたので、見つけやすかったのでしょう。

食べ物の恨みは怖いですね。

ついには探し出し、飛鳥川の河原で斬りました。

さらに、その一族の者すべての膝の筋を切りました。

(当時の一般的な刑法だったようです)

膝の筋

そのため、その子孫が大和に来ると、必ず足を引きずる、と言われるようになりました。

また、その犯人が住んでいた所を見つけたのでよく見えるように標識を立てました。

そこでその土地を志米須(シメス 所在地不明)と呼ぶようになりました。

雄略天皇陵破壊

顕宗天皇は、その父王の市辺之忍歯王を殺した雄略天皇を深く恨み、その霊(みたま)に報復しようと思われました。

そこで、その雄略天皇の御陵を破壊しようとして、人を遣わした時、兄の意祁王が申し上げました。

雄略天皇の墓と治定されている高鷲丸山古墳 (大阪府羽曳野市)

意祁王
この御陵を破壊するのに他人を遣わしてはいけません。

私が自ら行き、天皇(弟) の御心通りに破壊して参りましょう

そこで、顕宗天皇は言いました。

顕宗天皇
それならば、言葉どおりに行ってきなさい。

こういうわけで、兄の意祁王が自ら向い、少しだけ御陵の端を掘り、還り上り、

意祁王
堀り壊しました。

復奏(カエリゴト:しっかり調べ、天皇に申し上げる事)しました。

すると天皇は、意祁王が早く還り上って来たことを不思議に思い、

顕宗天皇
どのように壊したのか?

と尋ねました。

意祁王は、

意祁王
(雄略天皇の)
御陵の傍らの土を少しだけ掘りました

と答えました。

また、顕宗天皇が言いました。

顕宗天皇
父の仇を報いたいと思うなら、
ことごとく陵を破壊すればいいのに
なぜ少しだけしか掘らなかったんだ?

すると、意祁王 は、

意祁王
そのようにした理由は、父王の仇を報いたいと霊に報復しようと思うのは当然であります。

しかしその雄略天皇は父の怨敵ではあるが、
一方では私たちの従父(親戚のおじさん)であります。

また、天下をお治めになった天皇でもあります。

ここで今、単に父の仇という志だけをもって、天下を治めてた天皇の陵をことごとく破壊したならば、後世の人々は必ず非難するでしょう。

ただ、父王の仇は報復しなければいけない。

ゆえに、その陵の傍らを少しだけ掘りました。

既にこの辱めにより、後世にその志を示すに十分な事です。

このように申し上げたので、顕宗天皇は、

顕宗天皇
それもまた大きなる道理です。

命(ミコト:意祁王)のお言葉どおりで良いとしましょう。

その後、顕宗天皇が崩御すると、すぐに意祁王が皇位を受け継ぎました。

顕宗天皇の御年は、38歳。

天下を治めた期間は8年です。

御陵は片岡の石坏岡(イワツキノオカ:奈良県香芝市今市)の上にあります。

顕宗天皇陵と治定される傍丘磐坏丘南陵 (奈良県香芝市)

陵名は傍丘磐坏丘南陵(カタオカノイワツキノオカノミナミノミササギ)です。

はるさん的補足 凄惨なドラマの終焉

日本書紀」によると、顕宗天皇

幼少期に播磨の志染(シジム)に隠れ住むなど、苦労を重ねてきたこともあり、

庶民の苦しい暮らしを理解し、負担を軽くする善政を行なったと言われています。

そして顕宗天皇は、雄略天皇陵僅かに壊しただけにとどめました

これにより、安康天皇の時代から続いた凄惨なドラマも幕を閉じます

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