これまでのあらすじ
清寧天皇が崩御した後、
皇位継承者として履中天皇の孫であり、市辺之忍歯王 (イチノヘノオシハ) の息子である袁祁王 (ヲケ) が顕宗天皇として即位しました。
顕宗天皇は雄略天皇に殺害された、父 (市辺之忍歯王) の骨を探し出しました。
猪飼の老人
参考記事:市辺之忍歯王を殺害 意祁王と袁祁王の逃亡
次に、父・市辺押歯王が殺された時、兄・意祁王(オケ)とともに逃げ出した際、途中でお弁当を強奪されたことについて、犯人が自分から名乗った「山城の猪飼」を探し求めました。
猪飼は顔面に入れ墨をしていたので、見つけやすかったのでしょう。
食べ物の恨みは怖いですね。
ついには探し出し、飛鳥川の河原で斬りました。
さらに、その一族の者すべての膝の筋を切りました。
(当時の一般的な刑法だったようです)
そのため、その子孫が大和に来ると、必ず足を引きずる、と言われるようになりました。
また、その犯人が住んでいた所を見つけたのでよく見えるように標識を立てました。
そこでその土地を志米須(シメス 所在地不明)と呼ぶようになりました。
雄略天皇陵破壊
顕宗天皇は、その父王の市辺之忍歯王を殺した雄略天皇を深く恨み、その霊(みたま)に報復しようと思われました。
そこで、その雄略天皇の御陵を破壊しようとして、人を遣わした時、兄の意祁王が申し上げました。
私が自ら行き、天皇(弟) の御心通りに破壊して参りましょう
そこで、顕宗天皇は言いました。
こういうわけで、兄の意祁王が自ら向い、少しだけ御陵の端を掘り、還り上り、
と復奏(カエリゴト:しっかり調べ、天皇に申し上げる事)しました。
すると天皇は、意祁王が早く還り上って来たことを不思議に思い、
と尋ねました。
意祁王は、
御陵の傍らの土を少しだけ掘りました
と答えました。
また、顕宗天皇が言いました。
ことごとく陵を破壊すればいいのに
なぜ少しだけしか掘らなかったんだ?
すると、意祁王 は、
しかしその雄略天皇は父の怨敵ではあるが、
一方では私たちの従父(親戚のおじさん)であります。
また、天下をお治めになった天皇でもあります。
ここで今、単に父の仇という志だけをもって、天下を治めてた天皇の陵をことごとく破壊したならば、後世の人々は必ず非難するでしょう。
ただ、父王の仇は報復しなければいけない。
ゆえに、その陵の傍らを少しだけ掘りました。
既にこの辱めにより、後世にその志を示すに十分な事です。
このように申し上げたので、顕宗天皇は、
命(ミコト:意祁王)のお言葉どおりで良いとしましょう。
その後、顕宗天皇が崩御すると、すぐに意祁王が皇位を受け継ぎました。
顕宗天皇の御年は、38歳。
天下を治めた期間は8年です。
御陵は片岡の石坏岡(イワツキノオカ:奈良県香芝市今市)の上にあります。
陵名は傍丘磐坏丘南陵(カタオカノイワツキノオカノミナミノミササギ)です。
はるさん的補足 凄惨なドラマの終焉
「日本書紀」によると、顕宗天皇は
幼少期に播磨の志染(シジム)に隠れ住むなど、苦労を重ねてきたこともあり、
庶民の苦しい暮らしを理解し、負担を軽くする善政を行なったと言われています。
そして顕宗天皇は、雄略天皇陵を僅かに壊しただけにとどめました。
これにより、安康天皇の時代から続いた凄惨なドラマも幕を閉じます。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)