日本神話タロット「剱ノ拾」は「古事記」の長い範囲を一枚にまとめています。
記事がとても長くなってしまうため、(120)と2回に分けています。
これまでのあらすじ
父、景行天皇に命じられた東征を終え、美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚した日本武尊(ヤマトタケル)は、東征の時に活躍してくれた草薙の剣(別名:アメノムラクモ)を置いて伊吹山の神を征伐しに行きました。
大きな雹によって満身創痍となった日本武尊ですが懸命に都を目指します。
「古事記」における日本武尊の崩御と「白鳥の陵」
日本武尊の崩御
平群(ヘグリ)の山の
熊白檮(クマカシ)の葉を
かんざしとして刺しなさい
お前たちよ
ともう一つ、思国歌(クニシノビウタ)を歌いました。
平群とは奈良県生駒郡平群町の矢田丘陵辺りです
また、
雲が立ち渡ってくるよ
と詠みましたが、この時、ご病気が急変しました。
それでもまた
我が置き残した 大刀
その大刀よ
病が進んで今際の際まで、草薙の剣のことを忘れず、こうまで深く思いこんだ御心、
勇んだ勢いがゆるみないこと、
また、その御心がずっと後のちの世までこの御刀にとどまっていることも知られて、
とても心深く、滅多にない優れた歌である。(古事記伝)
とお歌いになり、崩御されました。
そこで残った者達は、早馬の使者を都の天皇にお届けしました。
4首の大御葬歌(オオミハフリノウタ)
訃報を受けて、大和にいらした后たちと御子たちは皆、能煩野(ノボノ)に行き、御陵を作って、田を這い回り悲しみの声を上げました。
(后たちと御子たちについては後日、日本武尊の系譜で詳しく説明します。)
その稲の茎に 這いからまっている
山芋の蔓よ
(這い回って泣くことを表しています)
この時、日本武尊の霊魂が、大きな白い千鳥になって天に飛翔し、浜に向かって飛んで行きました。
后たちと御子たちは篠竹の刈り杭に、足が切り裂かれても、その痛みを忘れて、声を上げて泣きながら追いました。
そして
鳥のように空を飛んでは行かれず
足でトボトボ行く もどかしさよ
と詠みました。
次に海水に浸かってヨタヨタ追いかける時に
広い河に 生えている水草のように
海では 波にゆらゆらもたつくばかり
と詠み、また白い千鳥が飛んでそこの磯に止まってらした時に
磯づたいに追いかけます
とお歌いになりました。
この4首の歌はどれも日本武尊の御葬(ミハブリ)の時に歌いました。
この4首の歌は今でも(「古事記」編纂期)
天皇の大葬の儀で歌われています。
昭和天皇の大喪でも歌われました。
白鳥陵
それから白い千鳥は飛翔して河内国の志紀(大阪府柏原市辺り)にお止まりになりました。
そこで、その地に御陵を作り、鎮座申し上げました。
その御陵を「白鳥陵」といいます。
しかし、そこからまた天高く飛翔して行ってしまわれました。
日本武尊が諸国平定に巡幸なさった全てにわたり、久米直(クメノアタイ)の祖先である七拳脛(ナナツカハギ)が、ずっと調理人としてお仕え申し上げていました。
日本神話タロット 極参剱ノ拾(ソード10)
カードの意味と解説文は
(120)をご覧ください。
はるさん的補足 「古事記」におけるヤマトタケルの扱われ方
「古事記」(712年編纂)や「日本書紀」(720年編纂)での
ヤマトタケル(「古事記」では倭建命と表記されています)
はあくまで景行天皇の御子です。
しかし、同じ頃にまとめられた「常陸国風土記(ヒタチノクニフドキ)」(713年編纂)には
「倭武天皇(ヤマトタケルノスメラミコト)」と表記され、天皇として扱われています。
「古事記」でもヤマトタケルに天皇に使われるような敬語表現が使われています。
例えば持ち物に「御」という文字を付けたり、妻を「后」、子を「御子」と表記しています。
また、亡くなった時は「崩御」、墓を「御陵」という言葉を使っています。
加えて天皇の大葬の儀で歌われる「大御葬歌」の起源をヤマトタケルの葬儀だと主張しているのです。
これを踏まえて考えると、景行天皇のみがヤマトタケルを蔑ろにしただけで、
「古事記」の編纂者はヤマトタケルに準天皇ともいえる最大の敬意を払っていることがわかります。
ちなみに「大御葬歌」については、推古天皇のころに歌われだしたのではないかと言われており、それをヤマトタケルの説話に溶け込ませたのではないかという説があります。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)