(100)『古事記』崇神天皇③ 王権確立 タケハニヤスノミコの反乱
木津川(京都府)

これまでのあらすじ

第10代崇神天皇疫病の退散に成功し、大和での政権を握るだけでなく祭祀の掌握を果たしました。

崇神天皇の諸国平定

疫病を鎮めた崇神天皇は各地に軍を派遣して勢力を広げることにしました。

「古事記」における崇神天皇の諸国平定

オールカラー地図と写真でよくわかる!古事記」p.125

まず、「オオビコ(大毗古)」を越(コシ・新潟県)に、

その子供の「タケヌナカワワケ(建沼河別)」を東方12道に派遣し、

その方面の服従しない人たちを平定しました。

また、「ヒコイマス(日子坐王)」を丹波国に派遣しました。

この記事に出てくる皇族方の系譜

オオビコ」が越に行く途中、少女が不思議な歌を歌っていました。

歌を聴き胸騒ぎがした「オオビコ」は大和に引き返し崇神天皇に報告。

崇神天皇は「タケハニヤスノミコ(建波迩安王)」が反乱を起こしたのだと悟り「オオビコ」に軍の派遣を要請します。

オオビコ」とその軍が和訶羅川(ワカラガワ・今の木津川)に到着すると「タケハニヤスノミコ」が軍隊を出して対面し、お互いに挑み合いました。

なのでその地を伊ど美(イドミ・今は泉)と言います。

その戦いで「タケハニヤスノミコ」は戦死、「タケハニヤスノミコ」の軍は散り散りになって逃げましたが追いつかれ、攻められ苦しめられて袴に脱糞した兵士もいました。

なのでその地を屎褌(クソハカマ・今の樟葉)と名付けました。

また、逃げる「タケハニヤスノミコ軍」を斬ると川に入り、鵜のように川に浮かびました。

なので、その川を鵜河(今は木津川)と呼ぶようになりました。

さらに「タケハニヤスノミコ軍」を追って斬り刻みました。

それでその地を波布理曽能(ハフリソノ・今は祝園 ホウソノ)といいます。

このようにことごとく平定し、参上して崇神天皇に報告しました。

そして「オオビコ」は初めに命じられた通り、に向かいました。

東海地方方面から派遣した「タケヌナカワワケ」は父「オオビコ」と会津で一緒になりました。

なのでその地を会津と呼びます。

めいめいが派遣された国を平定し、崇神天皇に報告しました。

この平定の話しの真偽

将軍派遣の伝承の話しは崇神天皇東北地方まで勢力下に置いたことを意味しますが、

越国が大和王権に属するようになるのは大化の改新(645年)以降です。

また、太平洋側の東国も崇神天皇の時代に勢力下に置かれていたとは考えにくいですので、このお話は史実とは考えられません。

崇神天皇は実在したと考えられているので、多くの戦いを経験したと思われます。

ですから将軍達にもモデルがいた可能性は高いでしょう。

しかし、勢力下に置いた地域や将軍の人数の少なさは崇神天皇の偉業を示すためのフィクションであったと考えられます。

はるさん的補足 四道将軍

地図でスッと頭に入る古事記と日本書紀」p.71

古事記」には3人の将軍しか出て来ませんが「日本書紀」には「キビツヒコ(吉備津彦)」を合わせた4人が崇神天皇の命を受け、四道に派遣されました。

・「オオビコ」…北陸道

・「タケヌナカワワケ」…東海道

・「キビツヒコ」…西道

・「タニハノチヌシ(丹波道主命)」…丹波道

キビツヒコ」は「古事記」では「オオキビツヒコ(大吉備津日子命)」と表され、第7代孝霊天皇の御子として登場し、吉備国を平定しています。

(参照: (95)欠史8代②孝昭・孝安・孝霊天皇)

彼らは

崇神10年9月9日に命を受けそれぞれ戦い、

崇神11年4月28日に平定したことを天皇に報告しています。しかし

・具体的な戦いぶりについての記述がないこと

・命を受け、平定し復奏するまでの期間が半年足らずであること


などから考えて、こちらもフィクションであったと思われますが「日本書紀」では「四道(シドウ)将軍」と名付けられ、英雄たちとして描かれています。

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