(101)『古事記』崇神天皇④徴税の始まり 天皇の年齢(一年二歳論)
崇神天皇陵 行燈山古墳 (奈良県)

これまでのあらすじ

第10代崇神天皇は、疫病を退散させ、祭祀も掌握し、大和王権に抵抗する者を平定しました。

崇神天皇 「ハツクニシラシシミマキノスメラミコト」

こうして天下は太平になり、人民は富み、繁栄しました。

ここに初めて、

・男性は獲物の肉や皮を
・女性は布や糸を

貢物として納めるようになりました。

これが徴税の始まりです。

この天皇のことを褒め称えて

「ハツクニシラシシミマキノスメラミコト(所知初国之御真木天皇)」と申し上げました。

ハツクニシラシシミマキノスメラミコトとは初めて国を統治した天皇という意味です。

初代神武天皇も同じ名称で呼ばれました。

参照 : (86)「神武天皇」の東征 「神武天皇」は実在したか

この御世に依網池(ヨキミノイケ)軽の酒折池(カルのサカオリノイケ)を作りました。

(日本最古の農業用溜池だと思われます。)

依網池は大阪府住吉区庭井辺り  

軽の酒折池は奈良県橿原市大軽町辺りです

崇神天皇の御寿命は168歳。戌寅(ツチノエトラ)の年の12月に崩御されました。

御陵山辺道の勾岡(マガリオカ)のほとりにあります。

4世紀半ばに築造されたと推定される前方後円墳 周囲に濠が巡っています

はるさん的補足 一年二歳論

神武天皇以来、天皇の崩御された年齢を書いて来ました。

神武天皇の137歳、孝安天皇も137歳、孝霊天皇の128歳など、100歳越えの御寿命の方々がいらっしゃいました。

彼らはフィクションという説が濃厚なのですが、実在したと言われる崇神天皇の御寿命も168歳となっています。

ちょっと有り得ませんよね。

どうしてこのような年齢が書かれているのでしょうか。

「魏志倭人伝」に記されている一年二歳論

魏志倭人伝」に

「その俗は、正歳四節(年や春夏秋冬)を知らない。ただ春耕秋収を記して年紀とするだけ。」

と書かれています。

意味は「日本人は正しい年齢の数え方を知らない。(初期の天皇などが100歳を越えているのは)1年で2歳歳をとるという数え方だからなのですよ。

と、いう意味です。

夏の大祓、冬の大祓に関係がある?

最近はペット用の茅の輪くぐりも(秩父今宮神社)

神社で行われる大祓式は年に2回(夏は6月30日、冬は12月31日)あります。

大祓とはそれまでの半年間の罪穢れを祓い、清めてもらうことです。

大祓古代から受け継がれてきた儀式であると思われています。

ですので、大祓を過ぎると1歳年をとるされていたと考えられるかもしれません。

大禊の茅の輪くぐり(秩父今宮神社)

春分、秋分をもって一年と数えていたか

魏志倭人伝」の春耕秋収という言葉から考えると、春分秋分の日を持って一年としていたとも考えられます。

一年二歳論が正しいか確証はないが、、、

現在、日本に残る古文書などに、二倍年暦を裏付ける物やその後、一年一歳暦に直したことなどを書かれた物は見つかっておりません。

ですので、一年二歳論が正しいかどうかはわかりません。

古事記」を見てみると仁徳天皇の御寿命が83歳になっているなど、業績から考えると単純に半分としてしまうことには疑問を感じる方もいます。

多くの疑問はありますが、年齢や(戦いや妊娠)の期間などの記述を見ると、二倍年暦であったと考えると説明がしやすくなる場面が出てくることは確かです。

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