これまでのあらすじ
聖徳太子の父、用明天皇が即位しましたが、天然痘のために即位2~3年で亡くなります。
用明天皇は仏教に帰依したので、仏教を取り入れるのに賛成だった蘇我氏の勢力が強くなり、
物部氏が弱体化していきました。
用明天皇崩御から崇峻天皇即位まで
「古事記」には書かれていませんが、
用明天皇が崩御(587年)してから崇峻天皇が即位するまでの間に
次期天皇を巡っての争いがありました。
用明天皇は蘇我馬子が即位させた天皇でしたね。
次期天皇を巡る争い 物部氏の滅亡
これに対抗して物部守屋は穴穂部皇子に近づきます。
蘇我馬子と聖徳太子らは挙兵して物部氏を滅ぼしました。
(聖徳太子は四天王の像を祀って戦勝を祈ったと言われています。)
この587年に起きた内乱を「丁未(テイビ) の乱」、「衣摺(キズリ) の戦い」などといいます。
こうして崇峻天皇が即位することとなりました。
「古事記」における崇峻天皇
用明天皇の弟の
長谷部若雀天皇(ハツセベノワカササギノスメラミコト)は、
倉椅(クラハシ)の柴垣宮(シバカキノミヤ:奈良県桜井市)で天下を治め
第32代 崇峻天皇となりました。
崇峻天皇が天下を治め統治した期間は4年になります。
崇峻天皇は、592年の11月14日に崩御しました。
崇峻天皇陵
御陵は倉椅丘(クラハシノオカ:奈良県桜井市倉橋)にあります。
陵名は倉梯岡陵(クラハシノオカノミササギ)です。
「古事記」における崇峻天皇の記述は以上となります。
崇峻天皇の死
蘇我馬子らに立てられることによって天皇となった崇峻天皇ですが、
暫くすると、
自分が馬子の傀儡であることに気がつき
馬子に反発するようになります。
「日本書紀」には、
ある時イノシシを献上された崇峻天皇は
私が嫌う人のことも斬りたいものだ。
と、臣下の前で発言したことになっています。
そして多くの兵器を準備しました。
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蘇我馬子は
と思い、臣下である東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)に崇峻天皇を殺させました。
以前、第20代 安康天皇が目弱王(マヨワオウ)に殺されました。
しかし、安康天皇は存在自体が確かではないので、
確定した例では唯一の「天皇暗殺」です。
蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺した背景
イノシシのお話しはその後の創作と見られます。
では、蘇我馬子はなぜ崇峻天皇を暗殺したのでしょうか。
「古事記」には崇峻天皇の皇妃や皇子女は記述がありませんが
「日本書紀」によると、皇妃は小手子(コテコ)という大伴氏の女性です。
さらにそこに皇子がいました。
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蘇我馬子の娘の河上娘(カワカミノイラツメ)ともご結婚していますが、
子の記述がありません。
このことから蘇我氏が
天皇の嫡流が崇峻系に移るのを恐れたのではないか
とも言われています。
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その他にも
・崇峻天皇は仏教の普及に賛同していなかったからではないか。
・政策の違い
などから、馬子が崇峻天皇を疎ましく思ったと推測されています。
東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)馬子に殺害される
蘇我馬子の命令で
崇峻天皇を直接、殺害したといわれる
東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)
は崇峻天皇を暗殺した後、
馬子の娘であり崇峻天皇の妻であった河上娘を自らの妻にしました。
すると蘇我馬子に
と言われ、殺害されてしまいました。
(口封じのために殺されたという説もあります。)
河上娘は
2人の夫を父親 (蘇我馬子) に殺されてしまいました。
はるさん的補足 四天王寺
587年の「丁未(テイビ) の乱」は壮絶な戦いでした。
蘇我馬子は大軍を率いて物部氏を追討に出陣しましたが、物部氏は軍事氏族です。
物部氏の軍勢は強勢で、物部守屋自身も奮闘しました。
蘇我馬子の軍勢は3度にわたり軍の後退を余儀なくされます。
蘇我馬子の軍にいた聖徳太子は、仏法の加護を得ようと、
白膠木(ヌルデ) の木を彫り四天王の像を作り、戦勝を祈願し
と誓いました。
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その誓い通り、聖徳太子は物部氏から没収した土地を使い、
摂津に四天王寺を建立することを決めました。
「日本書紀」によれば、593年に建立に取り掛かります。
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四天王寺は1400年以上にわたり幾多の火災、戦災を潜り抜け、
1946年に「和宗 (仏教の宗派にとらわれない全仏教)」の総本山となりました。
古事記の他の記事
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中巻(神武天皇から応神天皇)
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