これまでのあらすじ
そして履中天皇が亡くなると、三男の反正天皇が即位し、
崩御されました。
「古事記」における允恭天皇
「古事記」における允恭天皇の皇妃と皇子女
反正天皇の弟が允恭天皇として遠飛鳥宮(トオツアスカのミヤ :奈良県高市郡明日香村 )においでになり、天下をお治めになりました。
允恭天皇が意富本杼王(オオホドノミコ)の妹の忍坂大中津比売命(オシサカノオオナカツヒメノミコト)と結婚してお生みになった御子は
・木梨之軽王 (キナシノカルノミコ)
・長田大郎女 (ナガタノオオイラツメ)
・境之墨日子王 (サカイノクロヒコノミコ)
・穴穂命 (アナホノミコト 後の安康天皇)
・軽大郎女 (カルノオオイラツメ 別名 衣通郎女 ソトオリノイラツメ)
・ハ苽之白日子王 (ヤツリノシロヒコノミコ)
・大長谷命 (オオハツセノミコト 後の雄略天皇)
・橘大郎女 (タチバナノオオイラツメ)
・酒見郎女 (サカミノイラツメ)
の9人です。
(男王が5人、女王は4人です。)
なかなか即位しなかった允恭天皇
兄の反正天皇が在位5年で西暦437年に崩御してしまいました。
死因は分かりませんが、もう少し長生きする予定だったのか、後継者を指名していませんでした。
反正天皇にもその前の天皇である履中天皇にも御子はいらっしゃいましたが、周囲が允恭天皇に即位を勧めました。
ところが允恭天皇は体が弱かったため再三辞退していたのです。
(天皇の空位の間は、葛城家の玉田宿禰が権勢を誇っていました。)
しかし、翌年に妻の忍坂大中津比売命らの強い要請を受けて即位しました。
その後、新羅国から頂いた薬のおかげで全快し、精力的に改革を行うこととなります。
もう1人の衣通姫
允恭天皇の5番目の御子軽大郎女 (カルノオオイラツメ 別名 衣通郎女 ソトオリノイラツメ)は
体から発する光が、衣を着ていても透けて外に出るほど艶やかで眩しかったので、当時の人々に衣通姫と呼ばれるようになったと言われています。
宝塚でも「衣通姫伝説」が上演されているので、ご存知の方も多いかもしれません。
(こちらの衣通郎女の恋物語(兄妹の恋物語)はこちらをご覧ください。)
その他にもう1人衣通姫と呼ばれた姫がいます。
允恭天皇の妃、忍坂大中津比売命の妹です。
このお話しは「日本書紀」に描かれていますが「古事記」には登場しません。
尚、衣通姫というのは当時、絶世の美女に付けられる渾名のような物だと思われます。
允恭天皇と衣通姫の出会い
病弱だった允恭天皇に即位することを強く勧めるなど、気が強い才媛だった妻の忍坂大中津比売命には美しい妹がいました。
允恭天皇は気になっていましたが妻の忍坂大中津比売命が怖くて何もできないでおりました。
🪴
当時、驚くような決まり事がありました。
その決まり事とは
天皇の前で舞を披露した者は若い女の子を献上しなくてはならないというものです!
天皇は妻の忍坂大中津比売命に舞を披露させます。
舞い終わった忍坂大中津比売命はなかなか言い出しませんでしたが、天皇に催促されて妹を献上することにしました。
このようにして允恭天皇は妻のお墨付きで衣通姫と通じることができることとなりました。
衣通姫、姉に気を使う
允恭天皇は喜んで衣通姫の元に使いを出します。
しかし、衣通姫は姉の気持ちを慮って、母親と近江の坂田に移り住んでしまいました。
忍坂大中津比売命と衣通姫はとても仲がよい姉妹だったと言われています。
しかし諦めない允恭天皇は7回も使者を送り、宮中に参上するように説得します。
最後の使者 烏賊津使主(イカツオミ)
允恭天皇には烏賊津使主(イカツオミ)という忠臣がいました。
絶対に衣通姫を連れて来い。
成功したらたくさんの褒美をやろう。
でも失敗したら、、、。
烏賊津使主は策を講じます。
干した飯を自分の着物の内側に仕込み、衣通姫の元に向かいました。
坂田のひなびた屋敷に着き、庭に通された烏賊津使主は、
お願いですから私と一緒に宮中にお越しください。
姉妹で争うようなことをさせないでください。
お察しくださいませ。
烏賊津使主も理解は出来ましたが、このまま帰ったら、允恭天皇に殺されてしまいます。そこで土下座をし、
もし私が1人で宮中に戻れば、天皇に殺されてしまいますから、いっそこの庭で朽ち果ててしまいましょう。
それから何日も烏賊津使主は庭に伏せたままでした。
衣通姫が
と言って水や食べ物を勧めても手をつけません。
実は烏賊津使主は着物に仕込んでいた干し飯を食べていました。
しかし、そんなことを知らない衣通姫は、恐ろしくなり、7日目に宮中に参上することを決心します。
烏賊津使主の作戦は成功しました。
しかし、烏賊津使主は姉妹を慮り衣通姫を宮中には連れて帰らず、少し離れた藤原の宮に屋敷を用意しました。
忍坂大中津比売命の出産中に初めての夜を
せっかく、近くの藤原の宮まで衣通姫が来てくれたにもかかわらず、允恭天皇は妻が怖くてなかなか行けませんでした。
当時の天皇でしたら堂々としていても良いのですが、忍坂大中津比売は恐ろしかったのです。
さらに忍坂大中津比売は妊娠し、迫力を増していました。
いよいよ、臨月を迎え、陣痛がきた時、
この機会を逃せない。
と言って、允恭天皇は衣通姫の元に行き、ようやく初めての一夜を過ごせました。
忍坂大中津比売 火を放つ
出産後、このことを知った忍坂大中津比売は激怒し
では生きていても仕方ないです!
と言って、允恭天皇の目の前で産屋に火を放ち、自らも身を投じようとしました。
しかし、天皇も家臣も必死で止め、事なきを得ましたが、これによって允恭天皇は藤原の宮に通えなくなってしまいました。
心配不要だった衣通姫
允恭天皇は藤原の宮に通えなくなると、衣通姫のことが心配になりました。
私に放っておかれて恨んでいるのではないかな。
そう思って密かに藤原の宮に行きましたが、衣通姫は恨むどころかおっとりとした様子でした。
允恭天皇はその様子にさらに心惹かれてしまいましたが、妻の忍坂大中津比売の機嫌が悪くなり、
その様子が衣通姫にも伝わりました。
姉を苦しめるのは嫌なので、もっと遠くに行きたいです。
衣通姫は淋しいどころか、もっと遠くに行きたがっていたのです。
允恭天皇も忍坂大中津比売の機嫌の悪さに辟易していたので、河内の茅渟(チヌ)という場所に宮を建て衣通姫をお移しになりました。
狩に行くと言ってでかける允恭天皇
衣通姫の新しい宮のある茅渟の近くには日野根(ヒノネ)という狩場がありました。
允恭天皇は
と言って、供を引き連れ行幸を繰り返すようになりました。
とうとう忍坂大中津比売がお怒りになります。
そんなことではなく、頻繁に日野根に行幸されることで、
どれだけ多大な費用がかかっているかわかってるのですか。
それを下々の者たちが支えているのですよ。
下々の者のお気持ちを考えたらどうですか!
このように言われて、仕方なく允恭天皇は衣通姫になかなか会いに行けなくなりました。
次に行けたのは一年も経ってからです。
すると衣通姫は天皇にこのような和歌を詠みます。
君もあへやもいさな取り
海の浜藻の
寄る時々を🍃
現代語訳:
私たちの逢瀬が永遠に続くとは思えません。
あなたはゆらゆら揺れる浜の藻のような物。
私の所には時々寄ってくださるだけですものね。
金品を貢ぐ允恭天皇
大好きな衣通姫の心細そうな姿をご覧になった允恭天皇は、
通えない代わりに「藤原部(フジワラベ)」というものを作り、
藤原の里から差し出される税を全て衣通姫に差し出すことになりました。
(允恭天皇と衣通姫の物語はこれでおしまいです)
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和歌の神として降臨する衣通姫
時は経ち、平安時代に第58代 光孝天皇という天皇がいらっしゃいます。
光孝天皇は百人一首の
🍃君がため 春の野に出でて
若菜摘む
我が衣手に 雪は降りつつ🍃
を詠まれた天皇です。
その光孝天皇の夢枕に衣通姫が現れ、美しい姿で歌を詠んだそうです。
またもこの世に跡垂れむ
その名うれしき
和歌の浦波🍃
現代語訳:
私はもう一度、
この世に神となって現れましょう。
和歌の浦という名の地に、
寄せ返す波のように。
「和歌の浦」というのは和歌山県北部の風光明媚な所で、「万葉集」に山部赤人らがその地を讃える歌を詠んでいる、当時すでに有名な場所でした。
光孝天皇は夢枕にたった衣通姫を「衣通姫尊(ソトオリヒメノミコト)」として和歌の浦近くの玉津島神社に祀りました。
その後、衣通姫は「絶世の美女である和歌の神様」として平安貴族に信仰が広がりました。
源氏物語にも登場
和歌の神様、衣通姫については藤原定家や在原業平も語られていますが、
「源氏物語」の光源氏と若紫の出会いの場面にも衣通姫が登場します。
光源氏が若紫の乳母に
見る目はかたくとも
こは立ちながらかへる
波かは🍃
現代語訳:
幼い姫君と直接お会いするのは
難しくても
このまま帰るわけにはいかないのです
と詠むと、乳母が歌を返します。
心も知らで わかの浦に
玉藻なびかむ ほどぞ浮たる🍃
現代語訳:
和歌の浦に漂う玉藻のように頼りない気持ちでおります。
光源氏さまのお心はわからないですから。
この歌を聞いて、光源氏は若紫の乳母が教養のある女性だと判断したといいます。
そして若紫を衣通姫と重ねたかもしれません。
この場面から見ても、紫式部の時代には
「衣通姫=美人で歌の上手い女性」
という共通認識ができていたことがわかりますね。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)