これまでのあらすじ
第13代の成務天皇には御子がお一人いらっしゃいましたが、成務天皇より先に亡くなってしまったのでしょうか
ここで直系が途絶えてしまいます。
第14代仲哀天皇
そこで日本武尊の皇子、仲哀天皇が即位することになりました。
「古事記」における后妃と皇子女の記述
まずは恒例の家族紹介です。
人数は少なめですが、入り組んでいます。
仲哀天皇は穴門(アナト)の豊浦宮(トヨウラノミヤ 現在の山口県下関市長府豊浦町辺り)と
筑紫の香椎宮(カシイノミヤ 現在の福岡県福岡市東区香椎辺り)で天下を統治なさいました。
この地方に宮があるのは日本武尊に征伐された熊曽が再び反乱を起こしたので、制圧するためだったという説があります。
仲哀天皇が大江王(オオエノミコ)の娘である大中津比売(オオナカツヒメ)と結婚してお生みになった御子は
香坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)のお2人です。
また神功皇后と結婚してお生まれになった御子は、
品夜和気命(ホンヤワケノミコ)と
品陀和気命(ホンダワケノミコ)またの名を大鞆和気命(オオトモワケノミコ)後の応神天皇のお2人です。
この太子を大鞆和気命と名付けた訳は、初めお生まれになった時に、弓を射る時にまく鞆のような肉が、お腕にできていたからです。
その聖なる表徴(シルシ)によって大鞆和気命と命名されました。
このことで、母の胎内にいながらにして、国を統治なさいます。
仲哀天皇の時代に淡路島の屯家(ミヤケ)を定めました。
はるさん的補足 応神天皇誕生の謎
これまでの歴代天皇の多くは、大和(奈良県)など畿内で生まれていました。
皇后となる女性の血筋が天皇家の直系またはそれに近いことが多かったからでしょう。
仲哀天皇も(景行天皇の孫?)とされる大中津比売とも結婚されています。
ところが応神天皇となる御子は九州でお生まれになったとされています。
応神天皇の母 (仲哀天皇の皇后)神功皇后の祖先は新羅の王子である天之日矛(アメノヒホコ)で
祖父の兄は垂仁天皇に「常世国の実」を取ってくるよう命じられた多遅麻毛理(タジマモリ)です。
応神天皇は
「生まれた時から腕に鞆があった」から
「胎内から国を統治した」
という、これまた意味不明な記述がなされています。
このようなこともあり、応神天皇は元は九州の王であり、仲哀天皇までの王統は異なるという説が水野祐博士をはじめ、多くの学者から提唱されています。
古事記の他の記事
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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)