これまでのあらすじ
即位を祝う宴の最中に弟( 墨江中王 スミノエノナカツミコ)が反乱を起こしましたが、家臣の阿知直( アチノアタイ)によって助けられ、無事に石上神宮まで逃げることが出来ました。
「古事記」における水歯別命と隼人の曽婆訶里
仁徳天皇の3人の息子さんの物語です。
関係性が複雑なので図にしてみました。
図に番号をふりましたので参考にしてください。
①履中天皇の即位の宴で墨江中王が放火し、履中天皇の殺害を試みます。
履中天皇は石上神宮に逃げ込みました。
②石上神宮にいる履中天皇の所へ、同母の弟の水歯別命(ミズハワケノミコト:後の第18代 反正天皇)が会いにやって来ました。
しかし天皇は、
墨江中王(スミノエノナカツミコ)と同じ心ではないかと疑っている。
だから何も話すことはない。
と仰せになりました。
すると水歯別命は、
墨江中王と同じ心ではございません。
と申し上げたので、天皇は次のように言いました。
③
その時にはあなたと話し語り合おう。
そこで水歯別命は、難波に帰り墨江中王の側近の隼人の曾婆加理(ソバカリ)を欺いてこのように言いました。
隼人の祖は火照命(ホデリ 海幸彦)です!
④
どうだ。
すると曾婆訶理は、
と答えたので、水歯別命は隼人の曾婆加理にたくさんの品物を与え、
と命令しました。
⑤そして曾婆訶理は、自分の君主(墨江中王)が厠に入る時を密かにうかがい、矛で刺し殺しました。
墨江中王を殺させた後、水歯別命は曾婆訶理を率いて大和の方へ進みました。
大阪の山の麓に着いた時、水歯別命はこのように考えていました。
しかし自分がその功績に報いないことは信義に反してしまう。
だがその信義に従い報酬を与えれば、こいつはまた自分の私心のため平気で君主の命を狙うかもしれない。
その心が恐ろしい。
ならば一旦その功績には報いて大臣にし、本人は殺してしまおう。
そして水歯別命は曾婆訶理に、
と言い、その山の麓に留まり、仮の宮を造り、すぐに豊楽(トヨアカリ:酒宴)を開き、曾婆訶理に大臣の位を賜わって、
百官(モモノツカサ:たくさんの役人)達に拝ませました。
すると、曾婆訶理はそれに喜びました。
そこで水歯別命は曾婆訶理に、
と言い、共に酒を飲んだ時、顔を覆い隠すほど大きな椀に酒を盛りました。
まず、水歯別命が先に酒を飲み、その後に曾婆訶理が酒を飲みました。
曾婆訶理が酒を飲む時、その大きな椀が顔を覆いました。
⑥その時、水歯別命は自分の座っている敷物の下に隠し置いていた剣を取り出し、酒を飲んでいた曾婆訶理の首を切ったのでした。
そうして、翌日、大和へと上って行きました。
これによりこの地を近飛鳥(チカスアスカ:大阪府羽曳野市飛鳥)と言うのです。
そして、水歯別命は大和に上り着き、
禊祓(ミソギハラエ:罪や穢を祓い清めること)をして、
明日になってから履中天皇がいる石上神宮を拝礼しよう。
といいました。
そこで、この地を遠飛鳥(トオツアスカ:奈良県明日香)と言うのです。
⑦こうして石上神宮に参上し、履中天皇に、
と申し上げると、天皇は宮に召し入れ、水歯別命と語り話し合いました。
🍃
履中天皇を救った阿知値(アチノアタイ)を初めて蔵官(クラノツカサ:朝廷の蔵を管理する役職)に任命して、田所(耕作地)を賜いました。
また、この御世に若桜部臣(ワカサクラベのオミ:履中天皇が政治を行った場所を大臣の名称とした)らに若桜部という名を賜い、
また比賣陀君(ヒメダノキミ:菟上氏の子孫)らに比賣陀君の姓を賜い、
また、伊波礼部(イワレベ:皇后の所在地名)を定めました。
この天皇の御年は、64歳。壬申年(みずのえさるのとし:西暦432年)、1月3日に崩御されました。
御陵は毛受(百舌:大阪府堺市西区石津ヶ丘)にあります。
履中天皇陵と治定されている古墳
履中天皇陵と治定されているのは古墳の墳名は上石津ミサンザイ古墳です。
仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳、応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳に次ぐ大きさを誇る巨大な古墳です。
はるさん的補足 履中天皇の功績
「古事記」における履中天皇の記事は以上となります。
これだけですと、のんびりした性格の、あまり有能そうに見えない天皇のように見受けられてしまいます。
在位は5〜6年と短いのですが履中天皇はヤマト政権の国家体制を構築したとも言われています。
具体的には
・忠臣の平群木菟宿禰(ヘグリノツクノスクネ)・蘇我満智宿禰(ソガマチノスクネ)や、物部氏・葛城氏の各氏族にも国事を任せた。
・各地に国司を置き、官事を記録させて、広くその意向を伝えた。
・諸国の記録を残すために国史(フミヒト 書記官)を置き、細かな国情を報告させるようにした。
・蔵職(クラノツカサ)を設立し、蔵部(クラヒトベ)を置き、朝廷の財宝資料を倉に収め整理しました。
このように制度化することで、次第に複雑化していく国家財政を安定させようとしたのです。
履中天皇が、ヤマト政権の国家体制を構築した功績は大きく、履中天皇陵の規模に相応しい功績を残したといえるようです。
「古事記」の他の記事
これまで書けている記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)