これまでのあらすじ
民を思い、治水工事などを行なった仁徳天皇の時代は「聖帝の御世」といわれました。
その仁徳天皇が83歳で崩御されます。
履中天皇
仁徳天皇の御子の履中天皇は、伊波礼(イワレ)の若桜の宮(現在の奈良県桜井市池之内)で天下を治めました。
この天皇が、葛城の曾都毘古(ソツビコ)の子の葦田宿禰(アシダノスクネ)の娘、黒比売命(クロヒメノミコ)を娶って生んだ子は、
市辺之忍歯王(イチベノオシハノミコ)
次に御馬王(ミマノミコ)、
次に飯豊郎女(イイドヨノイラツメ)です。
御子は三人になります。
墨江中王の反逆
履中天皇が難波の宮(仁徳天皇の宮)にいらした時、大嘗祭に出席され、後の酒宴で大御酒を呑み、浮かれ良い気分で寝てしまいます。
大嘗祭とは
前の天皇が亡くなり、新しい天皇が即位した時に行われる新嘗祭のことです。
すると、その弟の墨江中王(スミノエノナカツミコ)が、天皇を殺そうと思い、御殿に火を放ちました。
🍂「日本書紀」に書かれている墨江中王が反乱を起こした理由
「日本書紀」によると、履中天皇が黒比売を妻に迎えいれようとして、
弟の墨江中王を使者として送り、婚礼の日取りなどを決めさせようとしました。
ところが、墨江中王は履中天皇の名を名乗り、黒比売とまぐわってしまいます。
このことが履中天皇に知られてしまいました。
墨江中王は天皇から責められることを恐れ、先に天皇を討とうとしたそうです。🍂
その時、倭漢値(ヤマトのアヤノアタイ)の祖である阿知値(アチノアタイ)がひそかに天皇を助け出して、お馬に乗せて大和へお連れしました。
履中天皇は、多遅比野(タジヒノ:現在の大阪府羽曳野市)に着いた所で目を覚まし、
と仰せになったので、阿知値は、
そこでお連れして大和に逃げています。
と申し上げました。
そこで天皇は歌を詠みました。
寝むと知りせば
立薦(タツゴモ)も
持ちて来ましもの
寝むと知りせば🍶
現代語訳:
多遅比野で寝ると(野宿する)知っていたなら、
立薦(筵 ムシロ:ござの様なもの)を持ってきたのになあ。
寝ると知っていたなら〜。
波邇賦坂(ハニウザカ:現在の大阪府羽曳野市の坂)に到着し、難波宮を遠望すると、その火がまだ燃えていました。
そこで天皇はまた歌を詠みました。
かぎろひの 燃ゆる家群(イエムラ)
妻が家のあたり🍶
現代語訳:
波邇布坂に私が立って見てみれば、
盛んに燃えている多くの家。
妻の家の辺りだなあ。
そして、天皇たちは進んで行きました。
そして、履中天皇は、大阪の山の入り口までやってきた時、一人の女に出会いました。
すると、その女は、
当麻(タギマ)から迂回して進んで行ってくださいませ。
と申し上げました。
これを聞いて天皇は次のように歌を詠みました。
道問へば 直には告(ノ)らず
当麻道(タギマジ)を告る🍶
現代語訳:
大阪で出逢った女人に道を問うと
真っ直ぐにとは言わず、
当麻へ行く道を告げたよ。
そこで天皇たちは当麻を上って、石上神宮にいらっしゃいました。
はるさん的補足 石上神宮
即位を祝う宴で弟に命を狙われるお話しにも関わらず、
履中天皇のおっとりした?性格からか緊迫感が感じられない場面です。
このような履中天皇ですが、しっかり者の阿知値という忠臣がいてくれたおかげで、石上神宮に逃げることができました。
石上神宮といえば建御雷神(タケミカヅチ)の剣(布都御魂 フツノミタマ 剣の神)を祀る神社です。
石上神宮はこの頃軍事面で活躍していた物部氏の根拠地でした。
履中天皇一行は、武器とともに物部氏の軍事力を頼ったのだと思われます。
「古事記」の他の記事
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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)