(137)『古事記』百済からもたらされた文化、技術 秦氏について
鏡(國學院大学博物館所蔵)

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これまでのあらすじ

仲哀天皇神功皇后の御子である応神天皇は即位し、多くの子供をもうけました。

社会的にも大きな戦乱もなく、平穏に満ちていました。

「古事記」における百済の朝貢(テウコウ)

4世紀ころの朝鮮半島勢力図

応神天皇の時代には、海部、山部、山守部、伊勢部を定められ、

また、剣池(ツルギノイケ:奈良県橿原市石川町にある灌漑)も作られました。

海部、山部、山守部、伊勢部とは

山や海などそれぞれを管理する部民。

灌漑(かんがい)

農作地に水を引くための用水路です。

灌漑池(剣池ではありません!)

また、新羅人(シラギビト:朝鮮半島の人々)が渡来し、

建内宿禰命新羅人を率いて、

渡の堤池(ワタリノツツミイケ:渡来人用の貯水池)として百済池(クダラノイケ)を作らせました。

新羅人を率いて作ったのに百済池という名前なのは謎です。

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また百済の国主(コニキシ:古代朝鮮語で国王の意味)である照古王(ショウコオウ)が、

牡馬一頭牝馬一頭阿知吉師(アチキシ)に持たせ応神天皇に献上しました。

照古王(ショウコオウ)は百済の第13代の近肖古王(在位346〜375)です。

この阿知吉師阿直史(アチキノフビト)らの祖です。

また、太刀大鏡も献上しました。


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応神天皇百済国

応神天皇
若くて賢い者がいれば献上しなさい

と命じ、そして命を受けて百済国から派遣されたのが和邇吉師(ワニキシ:王仁とも書きます)です。

和邇吉師論語十巻・千字文(三国時代の魏の学習書か?)一巻、合わせて十一巻を共に献上しました。

この和邇吉師文首(フミノオビト)らの祖です。

王仁博士の碑 (上野公園内)

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さらに、手人韓鍛(テヒトカラカヌチ:鍛冶職人)の卓素(タクソ)、

呉服(クレハタトリ:機織り女)の西素(さいそ)の二人も派遣されました。

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また 、秦造(ハタノミヤツコ)の祖、漢直(アヤノアタイ)の祖、

杜氏(トウジ:を造る人)の須須許理(ススコリ)らも渡来しました。

須須許理大御酒(オオミキ:天皇、神に差し出される御酒)を醸して天皇に献上すると、

天皇は大御酒に気分を良くして、御歌を詠みました。

🍶須々許理が 醸(カ)みし御酒に われ酔ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(エグシ)に われ酔ひにけり 🍶

現代語訳

須々許理が 醸(かも)した酒に私は酔った

災厄を払う酒、笑いが溢れ楽しい酒に私は酔った

このように歌い外出した時、

杖で大坂の道中(二上山の北側を越える道。穴虫越え。)の大きな石を打とうした時、その石が走って避けました。

それで、で「堅岩(カタイシ)も酔人を避く(堅い岩すら酔っ払いを避ける)」と言うのです。

はるさん的補足 渡来人がやってきた理由と秦氏

応神天皇の時代には多くの渡来人がやって来ました。

渡来人がやってきた理由

4〜7世紀、高句麗・百済・新羅三国時代を迎えた朝鮮半島では戦乱が絶えませんでした。

この情勢の中、倭(日本)との対外政策のために朝鮮の役人たちが次々と来日しました。

また、戦乱に巻き込まれた豪族達も、集団で日本に亡命したり、

指導者が多くの農民手工業者を引き連れて移住してきたりしたのです。

彼らがもたらせた学問、思想、裁縫、酒造、農耕、土木治水などの技術は様々な分野で技術革新をもたらせました。

当然、渡来人は朝廷で重んじられました

有力豪族 秦氏

603年に秦河勝によって創建された広隆寺

応神天皇の時代に、秦氏の祖である弓月君(ユズキノキミ)も渡来しました。

秦氏山背国(京都府)を拠点に水田開発、養蚕、機織を行ない、富を築きました。

土木治水技術も持っていたので、応神・仁徳推古天皇期に行なわれた大治水事業の中核となって活躍し、奈良時代には宮の造営もしています。

欽明天皇の時代に秦大津父(ハタノオオツチ)が初めて官職に就いて以降、聖徳太子の側近となり、広隆寺を建てた秦河勝(ハタノカワカツ)などを輩出しています。

秦氏の技術と富は、文化の発展のみならず朝廷の発展も支えました。

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コメント一覧
  1. この度の応神天皇と渡来人の関係は教科書にて学習しました。
    この渡来人の技術、文化なくして我が国の進歩は多少遅延したのではないかと思います。貴重な交流で在り土木技術ですね
    応神天皇はお酒を食しますと歌われるのですね。
    こちらの広隆寺は太秦の近郊ですね。この辺りの地名、神社名など難しい文字を当てられているのは渡来人の影響なのですね。

    • ありがとうございます♪
      本当にこの時期、飛躍的に変化、発展しましたね。
      才色健躾さんのコメントを見て、はっとして調べましたら、秦氏は太秦や嵯峨野地方から勢力を拡大していったようですね。
      この記事の写真に使った鏡の名前も難しい漢字です。

      • 朝鮮からの渡来人がもたらしたものによって、日本は発展していったのですね。日本人と渡来人の混血もあったでしょう。それなのにいつから日本と朝鮮の関係が悪化していったのでしょうね?豊臣秀吉の朝鮮出兵?秦氏の子孫などは、今は日本人、それとも韓国人としての民族意識を持って生きているのでしょうか?歴史は面白いですね!

        • ありがとうございます♪
          日本のかなりの割合は渡来人や混血だと思います。
          (そもそも大昔、人間が誕生して地続きだった日本にやってきたわけですし)
          やはり、隣国との関係は難しいですね。
          国民同士(特に若い人)が仲良くしているのは何よりです。

  2. この記事を読み始めたところで、「わざわざ倭の国(とるに足らない・新しいものもない片田舎だったかもしれない日本)にやってきたのは何故だろう?」などと思ったのですが。(機嫌をとる必要があった?親切や博愛?なんて)
    当時の朝鮮半島の戦乱の多さゆえだったのですね。いざという時には疎開先としてキープ、というのが理由の一つ、と。
    色々な最新の文化・文明をもたらしてくれたのは、本当にありがたい限りです。
    今でこそ地味(失礼)扱いをされていますが、山陰(島根鳥取など)や九州など半島に近いところは、本当に半島との往来が盛んで、最新のものナウいもので盛り上がっていたのでしょうね。

    • ありがとうございます♪
      権力者は常に身の安全と領土拡大を目論むものですね。
      山陰地方は一大勢力だったのでしょうが、ヤマトタケルの出雲征伐などもあり、すでに
      奈良や京都が中心にはなっていたのでしょうね。
      秦氏が京都府から勢力を拡大していったのは、日本に腰を下ろして、中央に影響を持とうと考えたのでしょう。

    • ありがとうございます♪
      ファンタジックな古事記が「歴史書」と言われる所以ですね!

  3. 応神天皇の母の神功皇后の新羅親征時は、「古事記」と高句麗の「好太王碑」とで、倭と百済と新羅について、記述に大きな違いがありましたが、応神天皇の時代には、対等の関係で、支配などはなく、かなり交流があったのですね。
    新羅や百済から渡来人が来ていろいろな氏の祖先になって、物や文化を伝えてくれたのですね。
    渡来人は、重宝され、文化や産業の発展に寄与してくれて良かったです。
    今回は、日本史の勉強になりました。

    • ありがとうございます♪
      とても鋭いところを突いてくださったと思います。
      古事記では
      応神天皇が命じた とか
      朝貢
      という表記をしています。
      神功皇后の新羅の親征の所でも、日本に服従するというニュアンスでした。
      でも、渡来人からすると、学問や文明を日本に伝授してあげたという意識だと思います。
      個人個人は倭の人も渡来人も仲良くやっていたのではないかと思うのですが、国家間の外交を考えると、どっから目線?となりそうな書き方をしてますね。

      • 朝鮮からの渡来人にもたらされた技術によって、当時の人々も今にいたるまで色々と影響を受けたことを改めて実感しました!
        日本からは親征だの何のと良い影響は無かったのに。。。
        本当に個人個人では仲良くできても、国家間だとどうしても近隣との外交関係って、難しくなりますね。

        • ありがとうございます♪
          朝鮮半島の歴史には、かなりの日本人が古代にも随分いっていたと書かれているようです。
          遣隋使などではなく、交易も案外盛んだったようですね。
          日本人と韓国人も個人個人はかなり仲良くなっているように思いますが、国家間は難しそうですね。

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