これまでのあらすじ
日本武尊の息子である仲哀天皇の時代、急に亡くなった仲哀天皇の代わりに
神功皇后は帰国後に品陀和気(ホンダワケ・後の応神天皇)を出産。
神託により神功皇后と建内宿禰(タケウチノスクネ)は品陀和気を後継者とすることにしますが、異母兄弟が反乱を起こしました。
しかし「品陀和気はすでに亡くなった」という嘘の情報を流すなどして撃退しました。
「古事記」における気比大神
品陀和気(仲哀天皇と神功皇后の息子、以下 御子とします)は
一度死んだとされたため、穢れを清める必要がありました。
そこで建内宿禰が近江の国、若狭の国を巡り越前の角鹿(ツヌガ 現在の敦賀)に仮宮を作り、御子をお迎えし穢れを祓う禊をしました。
するとその地に鎮座する神が御子の夢に現れて
と言いました。
御子が喜んで了承すると
「ナ」を贈りましょう
と、言いました。
翌朝、御子が浜に行くと、鼻が傷ついたイルカの大群が浜いっぱいになるほど押し寄せていました。
そこで御子は
現代語訳:
神がお召し上がりになるお魚を私に下さったのですね。
と、おっしゃり、神から品陀和気という名前を賜り、神には伊奢沙和気(イギサワケ)という名を与えました。
さらに神に食べ物の神という意味の御食大神(ミケノオオカミ)という名前も与えて称えました。
それで今も氣比大神(ケヒノオオカミ)といいます。
御子は「古事記」にはこれまで品陀和気という名前で登場していましたが、
ここで初めて神から品陀和気と命名されたことになります。
また、イルカの鼻の血が臭かったので、その浦を血浦と名付けました。
いまは都奴賀(ツヌガ 現在の敦賀)といいます。
古代の人々は名前には霊がこもると考えていました。
それを交換する名易え(ナガエ)は、両者の社会的関係が変わることを示しています。
この場合、敦賀の地が朝廷に服属したことを表します。
また、神が「ナ」を交換しようと提案したのは
「ナ」は魚を暗示する謎かけでもあったのですが
御子は見事に「我に御食の魚給(ナタマ)へり」と、解いてみせました。
つまり場面は、難題を克服した御子を讃える場面でもあるのです。
酒楽(サカクラ)の歌
写真は大阪府の住吉大社近くにある生根神社
神功皇后がここでお酒をお造りになったといういい伝えがあるそうです。
造酒の神スクナビコナを祀っています。
御子(と建内宿禰大臣)が都(大和)に着くと、母の神功皇后は待ち酒を差し上げ、
祝いの「酒楽の歌」を歌いました。
待ち酒とは、旅人が無事に着くことを祈り、醸すお酒のことです。
この神酒は私が作った酒ではありません
岩としてお立ちのスクナビコナがお作りになったものです
祝福し、踊り、栄え、踊って醸し
献上してきた由緒ある神酒です
残さずお飲みなさい
さあさあ
(どんどん召し上がれ)
この神酒を醸造したという人は
歌いながら醸造していたからか
踊りながら醸造していたからか
無性に楽しい
さあさあ
(どんどん召し上がれ)
酒宴を行うことによって品陀和気の即位が承認され、第15代応神天皇となりました。
「古事記」での記述もわかりにくいのですが、
・仲哀天皇と神功皇后の御子として生まれた時は伊奢沙和気(イギサワケ)
・氣比大神と名前を交換して品陀和気
・大和で即位して応神天皇となります。
仲哀天皇は壬戌の年(西暦182年)の6月11日に52歳で崩御されました。
御陵は河内の恵賀の長江(ナガエ)(現在の大阪府藤井寺市)にあります。
神功皇后は100歳で崩御しました。
佐紀(サキ)の楯列(タテナミ)(現在の奈良市山陵町)に御陵があります。
はるさん的補足 応神天皇即位の時期
「古事記」では応神天皇は気比神宮で参拝後に大和に行き、すぐに即位したことになっていますが、
「日本書紀」では神功皇后が摂政となり69年間にわたって政権を担っていることになっていて応神天皇が即位をするのは神功皇后が亡くなってからとなっています。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)