これまでのあらすじ
誤解から兄「大碓命(オオウス)」を殺してしまった「日本武尊(ヤマトタケル)」は父の景行天皇に熊曽征伐をするよう命じられます。
叔母「倭比売(ヤマトヒメ)」からいただいた着物を着て潜入し、油断した熊曽を征伐しました。
出雲建を征伐
日本武尊は熊曽征伐を終えると山の神・河の神・穴戸の神を平定しました。
穴戸とは現在の広島県福山市の芦田川河口辺りのことです。
その後、日本武尊は出雲国に入って滞在します。
出雲で猛々しい者として名を馳せていた「出雲建(イズモタケル)」を討つために、まずは仲良くなりました。
そして密かにイチイガシの木で偽物の刀を作り、自分の太刀として身に着け、出雲建と一緒に斐伊川で水浴びをします。
日本武尊は先に川から上がり、出雲建が置いていた太刀を身に着けて
とおっしゃいました。
後から出雲建が川から上がり、イチイガシでできた偽物の刀を身に着けました。
すると日本武尊は
とおっしゃいました。
出雲建が刀を抜こうとしても、太刀が偽物なので抜けません。
その隙に、日本武尊は出雲建を一太刀に斬り殺しました。
日本武尊は
刀身がなくて、まあおかしい!
と歌い、機嫌よく都に上がって、景行天皇に熊曽征伐と出雲征伐のことを報告しました。
斐伊川は「速須佐之男(スサノオ)」が「ヤマタノオロチ」と戦った川ですね。
はるさん的補足 強大な出雲勢力
神政国家が存在した?
神政国家とは
特定の宗教を総括する組織と、
国家を統治する機構が
同等な国家における政体です。
こうして出雲は平定されましたが「古事記」は出雲を重要視しています。
出雲地方は日本海に面し、古くから日本各地だけでなく海外との交易が盛んであったとされ、当時、一大文化圏を築いていました。
昭和59年(1984年)に2世紀半ばの銅剣358本が荒神谷遺跡で発見され、この数が後世記録された出雲の神社の数に近いことから、祭祀によって首長たちをまとめた「神政国家」が存在したという説が有力になりました。
四隅突出型墳丘墓
四隅突出型墳丘墓という形の墳墓が残されています。
四隅突出型墳丘墓は3世紀初めに出雲東部を中心に、島根・鳥取・広島・北陸地方の一部で造られました。
この墳墓は四隅に突出した形状で、斜面や裾に石を並べたのは出雲独特の様式です。
これは当時、出雲を中心に連合国家が成立していたことを示す証拠の一つとされました。
この墳墓は大和朝廷が進出する4世紀半ば頃から減り、出雲でも古墳が造られるようになります。
古事記の他の記事
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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)