これまでのあらすじ
御子の清寧天皇が即位しました。
しかし清寧天皇は病弱で若くして亡くなり、皇后も子もいませんでした。
そこで、履中天皇の娘である飯豊王が天皇の代行をしていました。
逃亡王子の名乗り
雄略天皇は皇位継承争いの際
履中天皇の御子である市辺之忍歯王(イチノヘノオシハ)も殺しました。
(参考:(159) 市辺之忍歯王を殺害 意祁王と袁祁王の逃亡)
これは市辺之忍歯王が殺された時に播磨 (ハリマ 兵庫県) に逃げた
意祁王(オケ) 袁祁王(ヲケ) 兄弟のその後のお話しです。
市辺之忍歯王の王子が逃げた家で宴会
ここに山部連小楯(ヤマベノムラジオダテ) が針間(ハリマ 現在の兵庫県) の国の
長官に任命された時に、
この国の人民の志自牟(シジム 兵庫県三木市志染町に「志染の石室」が残っています) の家の新築祝いの宴に參りました。
そこで盛んに遊んで、酒もたけなわの時に
順次に皆が舞いました。
その時に火焚きの少年が二人、かまどの傍におりました。
「古事記」では火を焚く人は、
実は大変地位が高かった、或いは教養があった (けれど火を焚いていた)
ということを表すために使われる表現です。
例えば
日本武尊と日本初の連歌を詠った火を焚く老人はその後
東の国造になりました。
(参考記事:(119) 日本初の「連歌」と「古事記」に出てくる月経)
市辺之忍歯王の御子だと名乗る
そこで、その少年たちにも舞を舞わせることにしました。
すると一人の少年が
と言うと、その兄も、
と言いました。
兄弟で讓り合っているので、集まっていた人たちは
2人が讓り合う有り様を見て、声を立てて笑いました。
遂に兄がまず舞い、次に弟が舞おうとすると、
歌を歌うように言われました。
お佩きになつている大刀の柄(ツカ) に
赤い色を塗り
その大刀の緒 (太刀を佩く時に用いるひも)
には赤い織物を裁たつて附け
赤い織物を立てて見れば
向うに隱れる山の尾の上の竹を刈り取って
その竹の端を押し靡なびかせるように
八絃の琴を奏でるように
天下をお治めなされた
伊邪本和氣(イザホワケ 履中天皇)
伊耶本和氣の御子である市辺之忍歯王
(イチノヘノオシハ)
市辺之忍歯王の御子です
わたくしは
と述べましたから、
意祁王と袁祁王、王家に復帰する
山部連小楯がこれを聞いて驚いて床から落ち転び
その家にいる人たちを追い出して、
そのお二人の御子を
左右の膝の上に座らせ申し上げ、
王子達の不幸を泣き悲しみ
民どもを集めて、仮宮を作り、
その仮宮にお二人をお住ませ申し上げて、早馬の急使を都に奉りました。
🐎
知らせを聞いて
その伯母様の飯豊王はお喜びになって、
2人の王子を角刺宮(ツノサシノミヤ) にお上らしなりました。
はるさん的補足 「日本書紀」では
「日本書紀」では清寧天皇が在位中に、播磨国(ハリマのクニ) の豪族の家にいた
意祁王と袁祁王 [日本書紀では億計(オケ)と弘計(ヲケ)と表記] が発見されています。
清寧天皇は子供がいなかったため、2人が発見されたことをとても喜び、
億計を皇太子に、弘計を皇子に決めました。
皇太子は皇位の第一継承者
皇子は天皇の御子
父である雄略天皇が皇位継承争いで親族の殺戮を繰り返していたので予め定めたのでしょうね。
清寧天皇は歴史上、早世した病弱な天皇ということになっていますが、
🌱吉備氏を征伐し、
🌱砂鉄の産地を没収するなど、
有能な一面を持っていました。
また、雄略天皇には
「仁孝の心がよく聞こえる」
と、評価されていたといいます。
仁孝とは
慈悲と思いやりのことです。
お父様(雄略天皇) とは大違いですね、、、
「日本書紀」によると、清寧天皇の在位はわずか5年。
お体が弱かったのは残念でした。
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中巻(神武天皇から応神天皇)
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