これまでのあらすじ
第19代允恭天皇が亡くなると、後継者争いが起きました。
僅かな間、安康天皇が即位しましたが、多くの血を流した末に雄略天皇が即位しました。
清寧天皇
雄略天皇の御子、白髪大倭根子命(シラガノオオヤマトネコノミコト 第22代清寧天皇) は
磐余(イワレ 所在不明 奈良県旧十市郡内と推定される)の甕栗宮(ミカクリノミヤ)で天下を治めました。
清寧天皇には皇后がなく、また御子もいらっしゃいませんでした。
そこで、天皇の御名代として白髪部(シラカベ) を定めました。
御名代とは
一定の役割を持って天皇に奉仕することを義務付けられた天皇直属の集団です。
清寧天皇が亡くなられた後、天下を治めるべき王が現れませんでした。
清寧天皇について
「古事記」には享年の記載はありませんが「日本書紀」には「御年若干」と書かれています。
病弱で少年の頃に崩御されたのでしょう。
🌱生まれながらに白髪(アルビノ)だったという説
🌱病弱だったので白髪になるまで永らえて欲しいと願い、白髪大倭根子命というお名前を付けたという説があります。
陵は大阪府羽曳野市西浦の古市古墳群の一つ
(日本武尊の陵の近く)
「白髪山 (シラガヤマ) 古墳」と治定されています。
飯豊王
皇位を継ぐ王を尋ね求めたところ、市辺之忍歯王(イチノヘノオシハ) の妹の
忍海郎女( オシヌミノイラツメ)
またの名は飯豊王(イヒドヨノミコ) が、葛城の忍海(オシヌミ) の高木の角刺宮(ツノサシノミヤ)にいらっしゃいました。
飯豊王は日本最古の女性天皇だったか
このように、「古事記」には宮の名称まで書かれておりますが、飯豊王を天皇と捉えていたか空位だったかはっきり書かれていません。
雄略天皇がライバル達を次々と殺してしまったために皇位継承者が居なくなってしまったので、臣下たちが市辺之忍歯王の妹である飯豊王に政務を託したのです。
宮内庁の扱い
明治時代から昭和20年までには、
「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」
としていました。
現在でも宮内庁は
「履中天皇の孫女 飯豊天皇」
と、称しています。
(「古事記」では履中天皇の娘です)
不即位天皇として扱っているのです。
正史の上では初の女帝は推古天皇ですが、それ以前に飯豊天皇がいた可能性もあります。
ですから、飯豊王の墓は「陵 ( 天皇や皇后などの墓) 」として扱われています。
角刺神社の近くにある飯豊天皇 埴口丘陵(ハニクチノオカノミササギ)
はるさん的補足 大豪族の吉備氏の反乱と滅亡
雄略天皇が崩御した後の皇位継承問題について「日本書紀」は吉備稚媛(キビノワカヒメ)が子の星川皇子 (雄略天皇との皇子) を天皇にしようと画策したことを描いています。
吉備稚媛は雄略天皇の臣下である吉備上道田狭(キビノカミツミチ)の妻だったのですが、
吉備上道田狭(キビノカミツミチ)が妻の美貌を自慢したので、
雄略天皇が吉備上道田狭(キビノカミツミチ)を任那(ミマナ)に派遣し、
その間に雄略天皇が吉備稚媛を奪ったと言われている美女です。
吉備稚媛は吉備氏出身です。
吉備氏は現在の岡山やら広島にかけて勢力を誇った地方豪族です。
岡山の稲作、瀬戸内での塩の生産、そして山部が砂鉄の産地だったので製鉄で強大な豪族となったのです。
「日本書紀」には星川皇子の反乱の際には
「吉備氏は岡山から船を40隻出した」
と書かれています。
しかし、大伴室屋(オオトモノムロヤ)が吉備氏を鎮圧し、吉備稚媛と星川皇子は焼き殺されました。
そして、即位した清寧天皇によって吉備氏の土地、山部(砂鉄の産地)を没収され、吉備氏は急速に没落しました。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)