これまでのあらすじ
第19代 允恭天皇が崩御すると後継者をめぐる争いが起こります。
残る後継者候補は大長谷王(オオハツセノミコ)だけとなりました。
雄略天皇 皇妃と皇子女
まずは恒例のご家族紹介です。
雄略天皇 (大長谷王) は長谷 (ハツセ) の朝倉宮 (奈良県桜井市黒崎辺り) においでになって、
天下を統治なさいました。
天皇は (安康天皇に殺された ) 大日下王(オオクサカノミコ ) の妹の、
若日下(部)王 (ワカクサベノミコ) と結婚なさいました。
御子はいません。
また、(雄略天皇に攻め殺された) 都夫良意富美(ツブラオオミ 葛城円) の
娘の韓比売 (カラヒメ) と結婚なさいました。
そしてお生みになった御子は、白髪命 (シラカノミコ 後の第22代 清寧天皇) と
妹の若帯比売命 (ワカタラシヒメノミコト) のお2人です。
古事記に描かれる雄略天皇の妻はお2人、御子もお2人です。
雄略天皇の功績
そして白髪太子の御名代 (ミナシロ) として白髪部 (シラカベ) を定め、
また長谷部の舎人(トネリ) を定め、
また河瀬 (カワセ 鵜飼の掌握をする) の舎人を定めました。
御名代とは
一定の役割をもって大王 (天皇) に奉仕することを義務付けられた天皇直属の集団
舎人とは
大王 (天皇) に仕え、警備や雑用をしていた者です。
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この天皇の御代に呉 (クレ 三国時代の一つが呉ですが、ここでは中国系の人という意味) の人が渡来しました。
その呉の人を呉原 (クレハラ 現在の奈良県高市郡明日香村栗原) に住まわせました。
そこでその土地を呉原というのです。
あまりモテなかったか雄略天皇?
允恭天皇の御子たちを中心とした一連の悲劇は
雄略天皇の兄である安康天皇が雄略天皇の結婚相手を探したことから始まりました。
娘を皇族の皇妃にさせたい豪族が多い中、雄略天皇は乱暴な性格が災いしてモテなかったようです。
「日本書紀」によると、
・雄略天皇は太子時代に反正天皇の娘たちに求婚しましたが、「ご機嫌次第で殺される」からと、逃げられました。
・また、天皇になってからも、誘いを断った池津姫(イケツヒメ 百済から貢進された娘?)を火あぶりにしました。
・「日本書紀」では吉備稚媛(キビノワカヒメ)とも結婚しているのですが、
吉備稚媛は元は吉備上道田狭(キビノカミツミチ)の妻でした。
しかし吉備上道田狭が自分の妻の美貌を自慢するので、吉備上道田狭を任那(ミマナ)の国司として派遣し、その留守中に吉備稚媛を宮中に迎え入れてしまったと書かれています。
こうしてみると、女性に対してかなり強引でモテない天皇だったといえるでしょう。
万葉集の巻頭歌
文学がお好きな方なら、雄略天皇と聞けば万葉集を思い出されることと思います。
日本最古の歌集である万葉集の巻頭歌(最初の歌) は雄略天皇作とされる長歌です。
🍃籠(こ)もよ み籠(こ)持ち
掘串(ふくし)もよ
み掘串(ぶくし)持ち
この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ)
家聞かな
名告(なの)らさね そらみつ
大和(やまと)の国は
おしなべて われこそ居(お)れ
しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは
告(の)らめ 家をも名をも🍃
現代語訳:
籠(かご)よ 美しい籠を持ち
箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち
この丘で菜を摘む乙女よ
きみはどこの家の娘なの?
名はなんと言うの?
この、そらみつ大和の国は
すべて僕が治めているんだよ
僕こそ名乗ろう 家柄も名も
この時代にお名前を聞くというのは求婚を意味します。
また、身分の高い人に名前を聞かれた場合、
身分が低い人から先にお答えする習慣がありました。
しかし、ご自分から
と名乗っていることから、ナンパをしている歌とも言われています。
本当に雄略天皇作か
この歌は「雄略天皇の御製の歌」と題詞にありますが、
本当に天皇が作ったとは考えられていません。
結婚とは子孫繁栄を表し、春の農耕開始時期に豊作を祈って伝承されて歌われた歌ではないかと言われています。
スケールが大きく五穀豊穣を予見させるこの歌は、万葉集の巻頭に相応しいと選ばれたのでしょう。
そしてその歌の作者は、数々の武勇と恋の伝説に包まれた帝王、雄略天皇に仮託されたと見られています。
古事記の他の記事
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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)