これまでのあらすじ
後継者争いの末に第16代仁徳天皇が即位しました。
「古事記」における天之日矛(アメノヒホコ)
「古事記」には応神天皇が崩御した後、(かなり時代が遡るのですが)天之日矛の来日の記事があります。
天之日矛を神功皇后の母方の祖先としているので、詳しく説明する必要があると思ったのでしょう。
昔、新羅の国王の子がいました。
名は天之日矛(アメノヒホコ)で海を渡って日本に来ました。
渡来した理由は次のようなものでした。
玉から生まれた美少女
新羅国に一つの沼があり、沼の名は阿具奴摩(アグヌマ)といいました。
この沼の辺に、一人の賤しい(身分の低い者)女が昼寝をしていました。
そこに日光が虹のように輝いて、その女の陰部を照らしました。
また、賤しい男もいて、その様子を不思議に思い常にその女の行動を密かに伺っていました。
するとその女は昼寝をしている時に身籠り、赤い玉を生んだのです。
その様子をずっと見ていた賤しい男は、その玉が欲しいと頼み手に入れて、物に包んで腰にずっと付けていました。
この男は田を山の谷間に作っていました。
ある時、農夫達の飲食物を一頭の牛に背負わせて谷の中に入ると、新羅の国王の子の天之日矛に出会いました。
すると、天之日矛は、その男に、
お前はこの牛を殺して食べるに違いない。
と言い、その男を捕えて牢獄に入れようとしました。
その男は答えました。
ただ農夫達の食料を運んで送り届けようとしているだけです。
しかし、それでも天之日矛は、許しませんでした。
「古事記伝」では、「身分の低い男」は他人の牛を盗んで殺そうとしたものとみています。
そこで、その男は腰に付けていた玉を取り出し、天之日矛に差し出し贈り物にしました。
すると、天之日矛は身分の低い男を放免し、その玉を持ち帰り床に置くと、その玉は美しい乙女になったのです。
天之日矛はその乙女と結婚し正妻としました。
その乙女はいつもさまざまな美味しい食事を作り、常に夫に食べさせました。
ところが天之日矛は、慢心して奢り高ぶり、妻を罵るようになりました。
その妻は
私は祖国にいきます。
と言い、人目を偲んで小舟に乗り、逃げ渡って来て、難波(大阪)に滞在。
難波の比売碁曽神社(ヒメゴソジンジャ)に鎮座する阿加流比売(アカルヒメ)という神になりました。
正妻を追って渡来した天之日矛
天之日矛は、妻が逃げ出したことを聞き日本まで追い渡って来たのです。
しかし難波に着こうとする手前で、難波の渡りの神が遮って天之日矛を入れませんでした。
天之日矛は戻って但馬国(タジマノクニ 兵庫県)に泊まりました。
天之日矛の子孫
そして但馬国に留まり、但馬の俣尾(マタオ 豪族のことか?)の娘の前津見(サキツミ)と結婚して生んだ子が多遅摩母呂須玖(タジマモロスク)です。
その多遅摩母呂須玖の子が、多遅摩斐泥(タジマヒネ)
その多遅摩斐泥の子が、多遅摩比那良岐(タジマナラキ)
多遅摩比那良岐の子が、
次に多遅摩比多訶(タジマヒタカ)
清日子(キヨヒコ)の三人です。
この清日子が当摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶とって生んだ子が、酢鹿諸男(スカノモロオ)、次に妹の菅竈由良度美(スガカマユラドミ)。
また、多遅摩比多訶が、その姪の菅竈由良度美を娶って生んだ子が葛城の高額比売命(タカヌカヒメ)です。
高額比売命は神功皇后の母です。
天之日矛が新羅から持ってきた物
天之日矛が新羅から日本に持って渡って来た物は、
玉津宝(タマツタカラ)といって珠を緒で貫いだ物。それを二つ。
また浪振比礼(ナミフルヒレ)、浪切比礼(ナミキルヒレ)、
風振比礼(カゼフルヒレ)、風切比礼(カゼキルヒレ)、
また奥津鏡(オキツカガミ)、辺津鏡(ヘツカガミ)、の併せて八種になります。
比礼とは
古代に女子が両肩から左右に垂らして用いたヒラヒラした布。
いずれも波や風を立てたり鎮めたりする呪具。神宝。
これは、伊豆志(イズシ)の社の八座の大神(兵庫県豊岡市に八種の宝を御親裁する出石神社がある)です。
はるさん的補足 日光感精卵生説話について
日光が当たって受胎するのを日光感精説話といい、卵や玉から生まれるのを卵生説話と言います。
この二つを合わせ持つのが「日光感精卵生説話(神話)」です。
卵から人が生まれる神話はインド、中国、インドネシア、ポリネシアにも見られます。
また、高句麗の始祖である朱蒙(シュモウ・東盟聖王)の生誕は日光感精+卵生であったとされています。
天之日矛は「新羅の王の子」という設定ですが、「日光感精卵生説話」は民俗間で伝わってきたのかも知れません。
古事記の他の記事
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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)