「古事記」「神武天皇」の東征
今回から、「古事記」の中巻に入ります。
(古事記上巻一覧はこちら)
しばらくは初代天皇である「神武天皇」のお話しが続きます。
まずは「神武天皇」の系譜から見てみましょう。
「イワレビコ(神倭伊波礼毘古命)後の神武天皇」は
「ウガヤフキアヘズ(鵜葺草葺不合命)」と「タマヨリビメ(玉依毗売)」の四男です。
次男の「イナヒ(稲冰)」は「ワタツミの宮」に、
三男の「ミケヌ(御毛沼)」は「常世国」に行きました。
という所で上巻が終わりました。
「イワレビコ」の東征
「古事記」におけるこの場面
「イワレビコ(神倭伊波礼毘古)後の神武天皇」と兄の「イツセ(五瀬命)」は、高千穂宮で相談し
やはり東へ行こう。
と言い、
日向(ヒムカ)の美々津から御船(ミフネ)で発って筑紫に遠征しました。
そして豊国(トヨクニ)の宇沙(ウサ)に着いた時、
その国の「ウサツヒコ(宇沙都比古)」と「ウサツヒメ(宇沙都比売)」が宮を造ってもてなしました。
それから
筑紫の岡田宮(オカダノミヤ)に移って1年居ました。
そこから
安芸の多祁理宮(タキリノミヤ)に7年とどまり、
吉備の国の高島宮に8年いました。
高島宮から東方に向かった時、
亀の甲に乗って釣りをしながら袖を振る人がいて、
速吸門(ハヤスイノト)(明石海峡のこと)に出ました。
その釣り人を呼び寄せて
と聞くと
と答えました。
そこで
と聞くと
そこで彼に棹を渡して御船に引き入れ「サオネツヒコ(槁根津日子)」という名前を与えました。
これが倭国造(大和朝廷に仕える地方豪族)らの祖です。
「イワレビコ」の名前について
お名前が長いので「イワレビコ」と書いておりますが、
「古事記」での正式名称は「カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)」です。
お名前を分解してみましょう。
カム…神の美称
ヤマト…大和、山に囲まれた場所
イハレ…大和の地名である「磐余(イハレ)」
ビコ…この地で治世を行った尊い男子
つまり「大和の磐余という場所に宮殿を構えて治世を行った貴い男子」という意味です。
ちなみに「イワレビコ」が「神武天皇」と呼ばれるようになったのは、亡くなってからのことです。
「日本書紀」における「イワレビコ」の東征
この記事ではまだ「イワレビコ」一向は
速吸門(ハヤスイノト)(明石海峡のこと)にいますが、やがて和歌山県の熊野を通り磐余の辺りまで行きます。
「古事記」と「日本書紀」は東征のルートはほぼ同じですが、「日本書紀」の方が詳しく書いています。
また、内容にも少し違いがあるので見てみましょう。
出発した時の「イワレビコ」の年齢
「古事記」…記載なし
「日本書紀」…45歳
出発地
「古事記」…美々津(宮崎県)
「日本書紀」…速吸之門(ハヤスイノト)
「日本書紀」では速吸之門(ハヤスイノト)を明石海峡ではなく、出発地の名称としています。
速吸之門(ハヤスイノト)は古名からいっても豊予海峡を指すとされているので、
「古事記」が記述順を間違えたとされています。
東征を始めた理由
「古事記」…「イワレビコ」の発案
「日本書紀」…「シオツチ(塩土老翁)」のススメ
東征にかかった年数
「古事記」…16年
「日本書紀」…6年
はるさん的補足 神武天皇は実在したのか
「ホオリ(山幸彦)」と同一視する説
「イワレビコ」は「ヒコホホデミ(彦火火出見)」という別名も持ってます。
それは祖父にあたる「ホオリ(山幸彦)」の別名と同じです。
「ホオリ」にも東遷神話があることから
「ホオリ」と「神武天皇」を同一視する説があります。
となると、謎なのが「神武天皇」の父である
「ウガヤフキアヘズ」の存在です。
「ウガヤフキアヘズ」については記述がほとんど無い神なので
1人を間に挟むことによって「ホオリ」という神話の世界と
「神武天皇」という人間界の人物をつなぐ役割りを果たすために登場させたとも考えられます。
崇神天皇と同一視する説
第10代天皇である「崇神天皇」と同一視する説もあります。
「神武天皇」と「崇神天皇」はいずれも
「ハツクニシラススメラミコト(始馭天下之天皇)」という別名を持っています。
「天下を初めて治めた天皇」という意味です。
この2人が同一人物であれば初代天皇は「崇神天皇」だということになります。
後で出てきますが、「神武天皇」の後、第2代から9代までの天皇は記述が少なく「欠史八代」と呼ばれ、
彼ら8人は架空の人物とも言われています。
天皇家の歴史を古く見せるために作為的に入れられたというのが大方の説になっています。
「神武天皇」が即位したとされる年
「日本書紀」によると「神武天皇」は辛酉(カノコトリ)の年(紀元前660年)に即位したことになっています。
これについては中国古代の辛酉(シンホウ)革命説の影響ではないかと江戸時代から言われています。
辛酉(シンホウ)革命説とは
60年に一度巡ってくる干支(カンシ)の辛酉の年に天命が革(アラタ)まるとする思想です。
つまり記紀の編纂者が推古天皇9年(西暦601年)より逆算して21元(1元🟰60年)をさかのぼった年を作為的に「神武天皇」即位の年に当てたのではないかと推測する説もあります。
いずれにしても「神武天皇」には神話的要素が強く、作為的に作られた存在だと考えるのが自然でしょう。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)