(87)『古事記』「神武天皇の兄 イツセの死」竈山墓はなぜ存在するか
イツセのミコト(五瀬命)

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「前回までのあらすじ」

ウガヤフキアヘズ(鵜葺草葺不合命)」の4人の子供のうち「イワレビコ(神倭伊波礼毗古命)」と「イツセ(五瀬命)」は天下を治めるために東に向かう(東征)ことにしました。

16年かけて速吸門(ハヤスイノト)に着いた時に「サオネツヒコ(槁根津日子)」と出会い、仕えさせます。

「古事記」における「イツセの死」

イツセ」と「イワレビコ」が東征を続け

浪速の渡(ナニワのワタリ)」を経て

青雲(アオクモ)」の「白肩津(シロカタのツ)」に泊まっていた時、

登美(トミ)」の「ナガスネビコ(那賀須泥毘古)」という大和地方の豪族が兵を集めて待ち構えていて戦になりました。

イツセ」と「イワレビコ」は盾を持って船から降り戦いましたが「イツセ」は手に深い傷を負ってしまいました。

イツセ
私は日の神の子なのに、日に向かって戦ったことがよくなかった。
背に日を負う所で戦おう。

と言って、南方に行くことにしました。

血沼海(チヌマウミ)」で手の血を洗い、さらに南に進んで紀伊国の「男之水門(オノミナト)」(大阪府泉南市あたり)に着き

イツセ
卑しい身分の奴らの矢で傷を負って死ねるか!

と雄々しく叫びながら亡くなりました。

陵は紀伊国の「竈山(カマヤマ)」にあります。

和歌山 竈山市

はるさん的補足 「竈山墓」

前回の記事で「神武天皇」は実在していないだろうという説が有力であると書きました。

ですから「イツセ」も実在していないでしょう。

しかし「古事記」や「日本書紀」に「竈山」に葬られたと書かれていることから

寛文9年(1669年)に「竈山神社」の区域を墓所と定め、殺生を禁じました。

それはあくまで区域であり「竈山墓」の所在は不明でした。

寛政6年(1794年)、本居宣長、大平親子「竈山神社」を参拝した時も墓は不明だったという記録があります。

現在の「竈山墓」は「竈山神社」内にある古墳を明治9年(1876年)に治定し明治14年(1881年)に修営したものです。

治定(ジテイ、チテイ、ジジョウ)とは、

この場合は宮内庁が「ここがお墓である」と認め、定めたという意味です。

ちなみに「古事記」ではと表されていましたが、昭和22年(1947年)の皇室典範において

陵(ミササギ)…天皇・皇后・太皇太后及び皇太后を葬る所

…その他の皇族を葬る所

と決められました。

イツセ」は天皇の兄なので「古事記」ではとなっていますが、現在は「竈山墓」と表されています。

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