これまでのあらすじ
「古事記」の最後は「欠史10代」と呼ばれる、簡単な系譜しか書かれていない天皇が続きます。
それは「古事記」が編纂された時、仁賢天皇以降は近代だと考えられていたからではないかと言われています。
前回は武烈天皇についてでした。
武烈天皇には子供がいなかったため、応神天皇まで遡り、5世孫の袁本杼命 (オホドノミコト 後の継体天皇) を滋賀県から呼び寄せます。
「古事記」における継体天皇の記述
第十五代 応神天皇の五世の孫の袁本杼命(オホドノミコト)は、
伊波礼(奈良県桜井市池之辺あたり)の玉穂宮(タマホノミヤ)で、天下を治め第26代 継体天皇(ケイタイテンノウ)となりました。
継体天皇の皇妃と皇子女
継体天皇が、三尾君(ミオノキミ)等の祖である若比売(ワカヒメ)を娶り生んだ御子は、
・大郎子(オオイラツコ)
・出雲郎女(イズモノイラツメ)のお2人です。
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また、尾張連(オワリノムラジ)等の祖である凡連(オオシノムラジ)の妹の目子郎女(メノコノイラツメ)を娶り生んだ御子は、
・広国押建金日命(ヒロクニオシタケノヒノミコト:後の第27代 安閑天皇)
・建小広国押楯命(タケオヒロクニオシタテノミコト:後の第28代 宣化天皇)のお2人です。
また、仁賢天皇の御子の手白髪命(タシラカミノミコト:皇后)を娶り生みになった御子は、
天国押波流岐広庭命(アメクニオシハルキヒロニワノミコト:後の第29代 欽明天皇)です。
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また、息長真手王(オキナガマテノミコ)の娘の麻組郎女(オクミノイラツメ)を娶り生んだ御子は、
佐佐宜郎女(ササゲノイラツメ: 後に伊勢神宮を祀る役割)です。
また、坂田大俣王(サカタノオオマタノミコ)の娘の黒比売(クロヒメ)を娶り生んだ御子は、
・神前郎女(カムサキノイラツメ)
・茨田郎女(ウマラタのイラツメ)
・馬来田郎女(ウマグタノイラツメ)の3人です。
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また、茨田連小望(ウマラタノムラジノオモチ)の娘の関比売(セキヒメ)を娶り生んだ御子は、
・茨田大郎女(ウマラタのオオイラツメ)
・白坂活日郎女(シラサカノイクヒノイラツメ)
・小野郎女(オノノイラツメ)またの名は長目比売(ナガメヒメ)の3人です。
また、三尾君加多夫(ミオノギミカタブ)の妹の倭比売(ヤマトヒメ)を娶り生んだ御子は、
・大郎女(オオイラツメ)
・丸高王(マロタカノミコ)
・耳王(ミミノミコ)
・赤比売郎女(アカヒメノイラツメ)の4人です。
また、阿倍波延比売(アヘノハヘヒメ)を娶り生んだ御子は、
・若屋郎女(ワカヤノイラツメ)
・都夫良郎女(ツブラノイラツメ)
・阿豆王(アズノミコ)の3人です。
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継体天皇の御子たちは、男王7人、女王12人の併せて19人になります。
この中の天国押波流岐広庭命(欽明天皇)が、次に天下を治め、
次に広国押建金日命(安閑天皇)が天下をお治め、
次に建小広国押楯命(宣化天皇)が天下を治めました。
ここでの記述は
欽明→安閑→宣化の順となっていますが
実際、この後の「古事記」には
安閑→宣化→欽明の順で書かれています。
安閑天皇と宣化天皇は継体天皇が即位される前に生まれた御子と見られてます。
本来は即位の資格がないのですが、後から天皇と認定されたものと思われ、順番が混乱しているようです。
そして佐々宜郎女は、伊勢の神宮(カミノミヤ)をお祭りなり仕えました。
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この継体天皇の時代に、
竺紫君石井(ツクシノキミノイワイ)が天皇の命令に従わず、
無礼な事が多くありました。
それで、
・物部荒甲之大連(モノノベノアラカイノオオムラジ)、
・大伴之金村連(オオトモノカナムラノムラジ)
の2人を遣わせて、石井を殺させました。
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天皇の御年は、四十三歳。
丁未年(ヒトツヒツジのトシ:西暦527年)の、4月9日に崩御しました。
御陵は、三嶋(ミシマ)の藍陵(アイノミサキ:大阪府茨木市大田)にあります。
はるさん的補足 継体天皇は現在の皇室の始まりか
継体天皇は謎の多い天皇です。
地方出身(「古事記」には滋賀県と記されていますが、母親のご実家の福井県にいらしたという説も有力です)
の継体天皇は即位(507年頃)してから大和 (奈良県) に入るまでに20年掛かっています。
ですので、20年かけて政権を奪った簒奪者ではないかとも見られています。
「日本書紀」に武烈天皇が暴君として描かれていることからも、継体天皇の代で政権が交代しているのではないかと唱える学者もいらっしゃいます。
そして継体天皇以降は王朝が交代した証拠がないので、現在に至る皇室の始まりは継体天皇であるとする説があります。
いずれにしても日本の皇室が世界最古の王家であることは変わりません。
古事記の他の記事
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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)