(94)『古事記』欠史8代① 2代綏靖・3代安寧・4代懿徳 漢風諡号とは?
綏靖天皇陵

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これまでのあらすじ

神武天皇」が崩御すると、後継者争いがぼっ発しました。

その結果「ヒメタタライスケヨリヒメ」の三男が第2代天皇になることに決まりました。

欠史8代とは

第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までについては「古事記」「日本書紀」双方ともに詳しい記述がありません。

実在が疑問視される天皇なので「欠史8代」と呼ばれます。

第10代以降の天皇については崩御された年の干支が記されていますが、欠史8代と呼ばれる天皇に関しては記されていないのが特徴の一つです。

「古事記」における欠史8代(2〜4代)

2代〜4代までの系譜

第2代 綏靖天皇

カンヌナカワミミ(神沼河耳命)綏靖天皇」は、葛城の高岡宮で天下を治めました。

高丘宮跡 (奈良県 葛城市)

師木県主(シキアガタヌシ)の祖先である「カワマタヒメ(河俣毗売)」と結婚して

シキツヒコタマテミノミコト(師木津日子玉手見命)」という御子がお一人お生まれになりました。

御寿命は45歳、御陵は衝田丘(ツキタノオカ)にあります。

綏靖陵(奈良県)

第3代 安寧天皇

シキツヒコタマテミノミコト(安寧天皇)」は片塩の浮穴宮(ウキアナノミヤ)で天下を治めました。

カワマタヒメ」の兄の娘「アクトヒメ(阿久斗比売)」と結婚して3人の御子が生まれました。

次男の「オオヤマトヒコスキトモノミコト(大倭日子すき友命)」が後継者になります。

(すきという字は金へんに且)

三男の「シキツヒノミコト(師木津日子命)」には2人の御子がいらっしゃり、

1人は伊賀の

須知稲置(スチイナキ)

ナバリイナキ(那婆理稲置)

ミノイナキ(三野稲置)」の祖先です。

三男のもう1人の御子は「ワチツミノミコト(和知都美命)」といい、2人の娘がいらっしゃっいました。

姉の名は「オオヤマトクニアレヒメ(意富夜麻登久邇阿礼売命)」で

妹は「ハエイロド(蝿伊呂ド)」(ドは木へんに予)です。

御寿命は49歳、御陵は畝傍山の南のくぼみにあります。

安寧天皇陵(奈良県)

第4代 懿徳天皇

オオヤマトヒコスキトモノミコト」は軽の境岡宮(カルノサカイオカノミヤ)で天下を統治されました。

オオヤマトヒコスキトモノミコト」は師木の県主の祖先の「フトマワカヒメ(賦登麻和訶比売命)」と結婚します。

そしてお生まれになった御子は2人です。

長男の「ミマツヒコカエシネ(御真津日子訶恵志泥命)」は天下を統治し、

次男の「タギシヒコ(多または当芸志比古命)」は

血沼別(チヌノワケ)

多遅麻(タジマ)の竹別(タケワケ)

葦井稲置(アシイノイナキ)の祖先です。

懿徳天皇」の御寿命は45歳、御陵は畝傍山の真名子谷(マナコタニ)のほとりにあります。

懿徳天皇陵(奈良県)

はるさん的補足 天皇の名称の変化

天皇(テンノウ)と呼ばれるようになったのは

天皇(テンノウ)」という言語は

7世紀前半の「推古天皇」の時代または

7世紀後半の「天武天皇」の

時代から使われるようになったと言われています。

それまでは「大王(オオキミ)」が一般的で、

形式張った時に「天皇(スメラミコト)」と称されていたようです。

和風諡号の適用

諡号(シゴウ)とは死後にその人の徳を讃えて贈られる名前です。

実際に和風諡号が最初に使われたのは

第41代「持統天皇」が崩御された時で「高天原広野姫天皇」でした。

持統天皇」を高天原の「アマテラス(天照大御神)」のように偉大だと讃える諡号ですね。

その時代に「神武天皇」まで遡って和風諡号が付けられました。ちなみに「神武天皇」の和風諡号は「神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコスメラミコト)」です。

このように和風諡号はやや大袈裟なくらい業績や徳を讃える美称となっています。

和風諡号は第53代「淳和(ジュンナ)天皇」を最後に無くなります。

漢風諡号の適用

漢風諡号というのは、生前の行いを表して次帝が贈る「逸周書・諡法解」などの定義によって選定される名前です。

神武天皇綏靖天皇などの天皇名は漢風諡号(カンフウシゴウ)です。

奈良時代後期の貴族である淡海三船(オウミノミフネ)が762〜3年頃に、初代「神武天皇」まで遡ってつけたものです。

古事記」編纂時(712年)にはまだ漢風諡号はなかったので後から書き加えられました。

漢風諡号は第58代「光孝天皇」までありました。

ゆかりの地などの追号を適用

その後は生前の宮所や御座所(オマシドコロ)などゆかりの地名などを根拠にする追号が大部分を占めるようになります。

元号を追号に

明治から一世一元制になり、「明治天皇」のように崩御の際は元号が追号として贈られています。

古事記」や「日本書紀」が漢風諡号に書き換えられたのは対外的(主に中国)な目を意識したからだと考えられます。

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古事記の他の記事

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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)

中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇)

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コメント一覧
  1. さゆ より:

    天皇の名称の変化のご説明ありがとうございました。諡号、追号を経て、今は元号なんですね。
    ところで、シキツヒノミコトとワチツミノミコトは結婚されたのかしら?それとも、ウケイなどで、お子さまをお持ちになったのかしら?
    御陵は、みんな近くにあるのでまとめて行きやすいですね。

    • harusan0112 より:

      和風諡号、漢風諡号、追号と色々あるんですね。
      漢風諡号は短くていいです。笑
      シキツヒノミコトの息子がワチツミです。
      長男の名前が古事記に書かれてないので分かりにくいのですが、系譜に示したように親子なんです。
      御陵は、地図で見るよりも遠かったのです。
      孝昭天皇陵までは行けましたが、6〜9代も近そうだと思って行く予定でしたが断念したのです。泣
      この辺りは道幅がとても狭く、駐車場から陵までも遠いことが多くて、想像以上にまわれませんでした。計画の立て方が甘かったかもしれません。

  2. 才色健躾 より:

    さすがにはるさんです。
    私よりも数段、元号、天皇の呼称について詳しく分かり易く説明されています。
    欠史8代とは初めて聞き及びました
    御墓陵ある以上は存在されていらっしゃると思いがちですよね
    この度も系譜あり理解できました。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      才色健躾さんのツイートを拝見して調べてみたくなりました。
      諡号の件は漢風になってもらえて嬉しいです。和風は長すぎです。笑
      御陵も宮内庁によって整備されているので、まるでいらした方々のようですね。

  3. よしちゃん より:

    「しごう」を筆頭に、読めない字のオンパレードでした
    人名(神名?)となると、なおさら。記事を書くにあたって、漢字を変換して・・というのがまず大変そう。これだけの現地取材もなされていて、本当にすごい記事を書かれている
    はるさんすごいです!

    諡号・・・天皇への一種の「戒名」でしょうか。
    名付けをする人の匙加減でどんな字を使うとか色々あるかもしれませんが、とにかく褒め称えて立派に「盛る」なんて事もなされていたかもしれませんね。

    昔読んだ漫画で「大和路はみんなお墓だ」なんていうくだりがあり
    ひどい言われようだと思いつつも納得したことを思い出しましたが
    (検索したら・・・見つけた)
    https://bullsailor.top/tag/%E7%9F%B3%E8%88%9E%E5%8F%B0%E5%8F%A4%E5%A2%B3/

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      漢字手書き検索でも出てこない漢字がいくつかありますね。
      諡号は敬意を込めて付けたのでしょうね。
      当時の漢学者が一生懸命考えたのでしょう。
      大和路はお墓や古墳もですが、神社仏閣やら
      ○○宮跡などが多く、自然と歴史が身近に感じられそうでいいですね。
      地図で見るよりも、移動に時間がかかり、予定通り周れなかったのが残念です。泣

  4. 01003 より:

    戦前は中学受験に備えて神武以降歴代の天皇名を暗記させられました。ただただ棒暗記で無駄なエネルギーを消費しました。一中、一高、東大を目指して。
    さすがに敗戦以降神話とか古事記日本書紀に触れるものは小学校の教科書から姿を消しましたね。
    それにしても はるさんはよく勉強していて感服します。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      丸暗記は大変ですが、子供にとって脳の活性化にはなったでしょうね。
      戦前は建内宿禰がお札になっていたようですね。
      古事記や本居宣長が間違った解釈で戦前教育に使われていたのは残念です。
      未だに、古事記を危険な本だと思う方もいらっしゃいます。

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