今回は木梨之軽太子(キナシノカルノヒツギノミコ)の流罪についてと、古代における道後温泉についての記事となります。
前回のお話し(衣通王物語)
允恭天皇の皇位継承者とされていた木梨之軽太子と同母妹の衣通王 (ソトオリノミコ) は禁断の恋に落ちました。
人民の心が弟の穴穂御子(アナホノミコ のちの安康天皇) に移り、皇位継承争いに敗れた木梨之軽太子は道後温泉に流刑となりました。
軽太子を追って道後温泉に来た衣通王と再会し、2人は心中しました。
古代の流刑国
日本初の流罪か
木梨之軽太子( 以下 軽太子) は伊予国の道後温泉に流刑となりました。
允恭天皇の崩御が西暦453年と言われていますので、流刑もその頃でしょう。
高天原を追放になった 須佐之男(スサノオ)を除けば (参照:(21)大暴れした「スサノオ」)、記録に残っている日本初の流罪です。
流罪は死罪に次ぐ重い刑罰だったようですが、あくまで (死罪にするには身分が高すぎる) 特権階級のみに対する刑罰でした。
軽太子が助けをもとめた大前小前宿禰が軽太子を裏切って穴穂御子に身柄を引き渡したことになっていますが、そのおかげで兄弟間で戦わずに済んだとも言えます。
とはいえ、伊予は上の地図を見ると中流の地、軽太子が皇太子だったことを考えれば、重罪とされたことがわかります。
絶対に挙兵などできない地が選ばれたのでしょう。
伊予国は温暖な気候にある温泉地ですので、今なら最高ですが、当時は淋しい場所だったかもしれません。
皇太子として育てられた軽太子や、美人で大切にされてきたであろう衣通王には耐えられなくて心中という道を選んだのでしょうか。
あるいは美しく愛を完結させたかったのでしょうか。
伊予の道後温泉
道後温泉は日本最古の温泉とされています。
伊予国風土記によれば、少名毗古那(スクナビコナ)が病いに伏した時に 大国主命(オオクニヌシ) が大分の速見湯を地下の水路を通して持って来て湯を飲ませると回復したとされ、それが道後温泉の起源と言われています。
道後温泉は「万葉集」や「源氏物語 (夕顔の巻)」にも登場するくらい古くから有名な温泉地です。
額田王も訪れた道後温泉
西暦661年、斉明天皇は自ら百済復興のために遠征を行います。
九州に向かう途中、道後温泉に2か月余り留まったといいます。
この時、額田王(ヌカダノオオキミ)が同行していました。
額田王は兵を励まし、必勝を祈願する歌を作られたと言われています。
🍃熟田津(ニギタツ)に
船乗りせむと月待てば
潮もかないぬ今は漕ぎ出でな🍃
現代語訳:
熟田津で船出をしようと月の出を待っていると、
月も昇って来たし、
潮の満ち具合も船出をするのにちょうど良くなった
さあ漕ぎ出よう!
※熟田津ははっきりとはわかっていませんが、道後温泉近くの海岸と言われています。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)