(109)『古事記』第12代景行天皇①后妃と皇子女 ヤマトタケルの表記
景行天皇陵 (奈良県天理市)

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これまでのあらすじ

身内の反乱子育ての悩み、お嫁さん選び不老不死の実を取りに行かせる、強制的な殉死の禁止など、様々なことがあった垂仁天皇が亡くなりました。

景行天皇

続いて第12代景行天皇の時代になります。

后妃と皇子女

景行天皇は「古事記」と「日本書紀」とでは全く違う書かれ方をされています。

ここでは基本的に「古事記」における景行天皇について説明して行きます。

「古事記」に載っている妻と子供

景行天皇纏向(マキムク)の日代宮(ヒシロのミヤ)(奈良県桜井市あたり)で天下を統治されました。

景行天皇

吉備臣たちの祖先である「若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)」の娘の「伊那毗大郎女(イナビノオオイラツメ)」と結婚してお産みになった御子は

・「櫛角別王(クシツノワケノミコ)

・「大碓命(オオウスノミコト)」(守君・太田君・島田君の祖先)

・「小碓命(コウスノミコト)(ヤマトタケル)」(東西の荒々しい神と服従しない人々を平定)

・「倭根子命(ヤマトネコ)

・「神櫛王(カムクシノミコ)」(紀伊国酒部阿比古らの祖先)の5人です。

八坂入日子命(ヤサカイリヒコ)」の娘の「八坂入日売命(ヤサカイリヒメ)」と結婚して

・「若帯日子命(ワカタラシヒコ)」(後の第13代成務天皇)

・「五百木入日子命(イオキイリヒコ)

・「押別命(オシワケ)

・「五百木入日売(イオキイリヒメ)」の4人が生まれます。

ある妾さん

・「豊戸別王(トヨトワケ)

・「沼代郎女(ヌシロイラツメ)」の2人をもうけ、

別の妾さん

・「沼名木郎女(ヌナキイラツメ)

・「香余理比命(カグヨリヒメ)

・「若木入日子王(ワカキイリヒコ)

・「吉備兄日子王(キビノエヒコ)

・「高木比売命(タカギヒメ)

・「弟比売(オトヒメ)」の6人をもうけます。

また日向の「美波迦斯毗売(ミハカシヒメ)」と結婚し、

・「豊国別王(トヨクニワケノミコ)」(日向の国造の祖先)が生まれ

伊那毗若郎女(イナビワカイラツメ)」との間に

・「真若王(マワカノミコ)

・「日子人大兄王(ヒコヒトノオオエノオウ)

訶具漏比売(カグロヒメ)」と結婚して

・「大枝王(オオエノミコ)」が生まれました。

景行天皇御子については「古事記」にはこの21人のみ記載されていて、書き記されていない御子が59人合計80人いらっしゃいます。

その中で「若帯日子命(ワカタラシヒコ)」「五百木入日子命(イオキイリヒコ)」と「小碓命(コウスノミコト)(ヤマトタケル)」の3人が太子(ヒツギノミコ)の名をいただき、

残りの77人は全て諸国の国造別(ワケ)稲置(イナキ)県主(アガタヌシ)に任命されました。

太子(ヒツギノミコ)は天皇の位を受け継ぐ御子のことです。

最終的には1人になりますが、このように複数の候補がいる場合があります。

国造別(ワケ)稲置(イナキ)県主(アガタヌシ)はいずれも地方官です。

国造は国司制以前の大国・小国の首長

は称号

稲置・県主は官職名だと言われています。

はるさん的補足 「倭建命(ヤマトタケル)」の表記

ヤマトタケル像「草薙神社」(静岡県)

景行天皇の御子の1人として「古事記」最大の英雄の1人「倭建命(ヤマトタケルノミコト)」が登場します。

古事記」では「建(タケル)」という文字

(例えば「熊襲建(クマソタケル)」「出雲建(イズモタケル)」など)

荒々しく吠える叫ぶという意味で強い不服従者への卑称として使われます。

倭建命」は景行天皇の命令を命を懸けて成し遂げていきますが、若き日の誤解から反抗者と扱われたのかもしれません。

そのためなのか、「ヤマトタケル」は「日本書紀」の表記である「日本武尊」という文字で表記することが一般的です。

この誤解については次回説明します。

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コメント一覧
  1. 景行天皇って、80人も子供がいたのですね!後継はその中から一番見込みのありそうな子を選べばいいので、皇位継承問題に困りませんね。今の時代の一夫一婦制だと、天皇家もいつまで続くか、運任せになってしまいますね。悠仁様大丈夫かしら?頑張ってもらいたいものです

    • ありがとうございます♪
      この時代は前の天皇が亡くなってから御子の中から選んだり、景行天皇の場合は奥様の家柄から?3人に絞っていたりと後継者決めは難航していたようですね。
      今は少数すぎて大変ですが、80人もいると争いも多かったでしょうね。
      悠仁さまには頑張ってもらわなければ、、、。

  2. 建が不服従者への卑称だとは知りませんでした。
    日本武尊に統一しているので、草薙神社も日本武尊と記しているのですね!
    妾の子の弟比売は、垂仁天皇と結婚されたミチノウミノミコの娘の弟比売とは別人ですね。
    景行天皇は垂仁天皇を上回る人数のご子息!
    それぞれが、職務を遂行すれば、かなり国は安定しますね。
    第10代崇神天皇の陵とお宮跡、第12代景行天皇の陵とお宮跡、第11代垂仁天皇のお宮跡は近いので歩けそうな感じがします。

    • ありがとうございます♪
      建が天皇への不服従者というのは古事記でのお話しです。
      姉妹の場合、兄比売、弟比売という名前は多いようです。
      太郎と次郎くらいの。
      男なのか女なのか分かりにくいですね。
      80人の子供というのが国造などになったというのは、景行天皇の時代に治世が進んだということかもしれません。
      ヤマトタケルが不服従者を武力で成敗し、他の子供が統治するという仕組みで。
      ちなみに、古事記での景行天皇はヤマトタケルに冷たく、自分は子作りばかりしている人物ですが、日本書紀では立派な天皇です。
      お宮は近所でいい所を探したのでしょうね!
      実際歩くと数時間かかりそうですが、親戚が多いので近所で助けあっていたかもしれないですね。

  3. お噂の景行天皇ですね。
    長寿、子沢山。生命の神と崇められそうなお方です。
    古事記、日本書紀にも記されることは実在の人物と信じられます。
    当地にも日本武尊の石碑は御座います
    倭健命の表記ではなく日本武尊の表記と云う事は日本書紀を以っての事なのでしょうね。

    • ありがとうございます♪
      お噂のですか。笑
      伊吹山での傷が致命的でしたからね。泣
      いつか私も訪れてみたい所です。
      古事記が好きな私でもヤマトタケルは日本武尊の字体がピッタリくると思います。
      日本神話上、一番強く賢く勇気がある男ですからね!

  4. 80人って!(◎_◎;)時々出てくるんですよね、こういう「剛の者」これだけいたらお世継ぎには確かに困らなさそうです。相続ならぬ「争続」も起こりえそうですが(^^;)

    ヤマトタケル、建か武尊か・・考えたことありませんでしたー。基本、カタカナ表記!という頭で凝り固まっているので。
    柔軟に物事を受け止められたらと日々思っていますし、その良い機会をいただいていていつもありがたいです。

    • ありがとうございます♪
      80人はお馴染みのたくさんという意味でしょうね。
      ただ、景行天皇のころに、各地に国造などが配備されたりして、治世が安定し始めたのではないでしょうか。
      古事記にも21人しか載っていないし、娘もいるのに、77人が〜のあたりは随分大雑把な書き方だと感じました。

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