前のページ(34)「ヤマタノオロチ④出雲と製鉄」
次のページ(36)「スサノオの宮探し、八雲立つ」
「スサノオ」は「ヤマタノオロチ」に「八塩折ノ酒」を飲ませて戦い勝利しました。
「スサノオ」が「ヤマタノオロチ」の中程の尾を切っている時に「アメノムラクモ」が出て来ました。
『日本神話タロット 極参』棒ノ拾
宮を作り幸せな生活をしていましたが、スサノオには気になる事が一つありました。
それは自分のせいで傷つけてしまった姉のことです。
今度は正装し、高天原に向かいました。
そしてアマテラスの元へ行き、天叢雲剣を献上したことによりアマテラスと和解しました。
参考記事
「八咫の鏡(ヤタノカガミ)」
「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」
と共に三種の神器と呼ばれています。
とも言われ、遺跡から数多く出土していることから、古代では皇室特有のものではなく権力者、豪族、支配者の象徴であったと思われます。
しかし言い伝えによると、熱田神宮に納められている「天叢雲剣」を盗み見た神官がいて
「武器のような物ではなく、見たことのないような物だった」
と伝えられています。
そこで考えられるのが「蛇行剣」です。
「蛇行剣」は古墳から僅かですが出土されており、「蛇行」という言葉も「ヤマタノオロチ」を連想させますし、見た目も雲のようなので「アメノムラクモ」という名前にふさわしいような気がしませんか。
確かめる術はない(天皇さえも見てはいけないそうです)ので想像するしかありませんね。
その後三種の神器がどのように扱われたかの記述はありません。
その後、相模国の焼津で火に囲まれた時「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」で草を刈り、向火によって助かったという記述があります。
(「古事記」の「草薙」という表現はこの場面から来ています。)
しかし、それから東国を平定した後、伊吹山の戦いの際は「おごる気持ち」からか、「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」を置いて行き、瀕死の状態となってしまったとあります。
(「ヤマトタケル」については後日別記事で紹介します。)
「剣を我が床の守りとせよ」と告げて出陣したそうです。
「ヤマトタケル」が亡くなると「ミヤズヒメ」は夫と「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」を祀りました。
これがのちの熱田神宮です。
その後1185年の壇ノ浦の戦いの時、安徳天皇と共にこの「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」は関門海峡に沈められ見つかりませんでした。
朝廷は伊勢神宮から剣を献上させ「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」の形代としました。
何度か盗まれたこともありましたが都度発見され、第二次世界大戦中も守られ、現在「熱田神宮」に大切に保管されています。
次のページ(36)「スサノオの宮探し、八雲立つ」
次のページ(36)「スサノオの宮探し、八雲立つ」
(35) 『日本神話タロット』 ワンド10「天叢雲剣(アメノムラクモ)」
これまでのあらすじ「スサノオ」は「ヤマタノオロチ」に「八塩折ノ酒」を飲ませて戦い勝利しました。
「スサノオ」が「ヤマタノオロチ」の中程の尾を切っている時に「アメノムラクモ」が出て来ました。
『日本神話タロット 極参』ワンド10「天叢雲剣(アメノムラクモ)」
棒ノ拾(ワンド10)の意味
・正位置
成功の代償、プレッシャー、重圧
・逆位置
責任を押し付けられる、アテが外れる
『日本神話タロット 極参』棒ノ拾
「天叢雲剣」の解説文(写し)
宮を作り幸せな生活をしていましたが、スサノオには気になる事が一つありました。それは自分のせいで傷つけてしまった姉のことです。
今度は正装し、高天原に向かいました。
そしてアマテラスの元へ行き、天叢雲剣を献上したことによりアマテラスと和解しました。
「古事記」では「ヤマタノオロチ」と戦い終わった「スサノオ」が「草薙の太刀」を「アマテラス」に献上してから、宮殿を探す流れです。
宮殿については次回説明することにします。
宮殿については次回説明することにします。
「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)について」
三種の神器の一つ
「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」は「八咫の鏡(ヤタノカガミ)」
「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」
と共に三種の神器と呼ばれています。
八咫の鏡(ヤタノカガミ)
、、、「知」を表す
八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)
、、、「仁」を表す
天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)
、、、「勇」を表す
、、、「知」を表す
八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)
、、、「仁」を表す
天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)
、、、「勇」を表す
「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」の形状
はっきりした形状はわかりませんが、吉野ヶ里遺跡から発掘された剣などから、一般的には上の写真のような形状の物と考えられています。しかし言い伝えによると、熱田神宮に納められている「天叢雲剣」を盗み見た神官がいて
「武器のような物ではなく、見たことのないような物だった」
と伝えられています。
そこで考えられるのが「蛇行剣」です。
「蛇行剣」は古墳から僅かですが出土されており、「蛇行」という言葉も「ヤマタノオロチ」を連想させますし、見た目も雲のようなので「アメノムラクモ」という名前にふさわしいような気がしませんか。
確かめる術はない(天皇さえも見てはいけないそうです)ので想像するしかありませんね。
「古事記」で「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」が登場する他の場面
「古事記」に登場するのは2カ所です。①天孫降臨の場面
天孫「ニニギ」が天下りをした時に、祖母「アマテラス」が三種の神器を持たせます。その後三種の神器がどのように扱われたかの記述はありません。
②「ヤマトタケル」の東国遠征の場面
父の景行天皇に東国遠征を命じられた「ヤマトタケル」が伊勢神宮にいる叔母のところに行き、叔母から「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」を授かります。その後、相模国の焼津で火に囲まれた時「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」で草を刈り、向火によって助かったという記述があります。
(「古事記」の「草薙」という表現はこの場面から来ています。)
しかし、それから東国を平定した後、伊吹山の戦いの際は「おごる気持ち」からか、「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」を置いて行き、瀕死の状態となってしまったとあります。
(「ヤマトタケル」については後日別記事で紹介します。)
はるさん的補足
「古事記」には書かれていませんが、「尾張熱田太神宮縁起」によると「ヤマトタケル」は妻の「ミヤズヒメ」に「剣を我が床の守りとせよ」と告げて出陣したそうです。
「ヤマトタケル」が亡くなると「ミヤズヒメ」は夫と「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」を祀りました。
これがのちの熱田神宮です。
その後1185年の壇ノ浦の戦いの時、安徳天皇と共にこの「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」は関門海峡に沈められ見つかりませんでした。
朝廷は伊勢神宮から剣を献上させ「天叢雲剣(アメノムラクモ)(草薙の太刀)」の形代としました。
何度か盗まれたこともありましたが都度発見され、第二次世界大戦中も守られ、現在「熱田神宮」に大切に保管されています。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)
前のページ(34)「ヤマタノオロチ④出雲と製鉄」次のページ(36)「スサノオの宮探し、八雲立つ」