これまでのあらすじ
第25代武烈天皇に子がいなかったので、第15代応神天皇の5世孫の第26代継体天皇が即位しました。
第27代 安閑天皇
継体天皇の御子の広国押建金日命(ヒロクニオシタケカナヒノミコト)は、
勾(マガリ)の金箸宮(カナハシノミヤ:現在の奈良県橿原市曲川町)で天下を治め、
第27代 安閑天皇となりました。
この安閑天皇には、御子がおりませんでした。
乙卯年(535年)の3月13日に崩御しました。
御陵は、河内の古市の高屋村(タカヤノムラ:現在の大阪府羽曳野市古市)にあります。
安閑天皇陵
安閑天皇陵の陵名は古市高屋丘陵(フルイチノタカヤノオカノミササギ)、
墳名は高屋築山古墳(タカヤツキヤマコフン)です。
「古事記」における安閑天皇の記述は以上となります。
第28代 宣化天皇
安閑天皇の弟の建小広国押楯命(タケヲヒロクニオシタテノミコト)は、
檜坰(ヒノクマ)の廬入野宮(イオリノノミヤ:現在の奈良県明日香村檜前)で天下を治め
第28代 宣化天皇となりました。
宣化天皇が、仁賢天皇の御子の橘之中比売命(タチバナノナカツヒメノミコト)を娶り生んだ御子は、
・石比売命(イワヒメノミコト:後の欽明天皇の皇后)
・小石比売命(オイワヒメノミコト)
・倉之若江王(クラノワカエノミコ)の3人です。
安閑天皇、宣化天皇の系譜が後から追加されたのではないかと言われる根拠の一つとなっています。
また、川内之若子比売(カワウチノワクゴヒメ)を娶り生んだ御子は、
・火穂王(ホノホノミコ)
・恵波王(エハノミコ)のお2人です。
この宣化天皇の御子は、男王3人、女王2人の5人になります。
そして、火穂王は志比陀君(シイダノキミ) の祖で、
恵波王は韋那君(イナノキミ)、多治比君(タジヒノキミ)の祖です。
「古事記」における宣化天皇の記述は以上となります。
「古事記」には宣化天皇の崩御、御寿命、陵墓に関する記述はありません。
安閑・宣化紀では539年に73歳で崩御されたことになっています。
安閑・宣化紀にも安閑天皇・宣化天皇はいずれも短い期間だったため、屯倉を各地に造ったことくらいしか記述がありません。
(屯倉は天皇の直轄地ですから、各地の動乱を鎮める必要があった時期だったといえるでしょう。)
宣化天皇陵
宣化天皇陵の陵名は、身狭桃花鳥坂上陵(ムサノツキサカノエノミササギ)で、
墳名は鳥屋ミサンザイ古墳です。
天皇と皇后は通常、別の陵に埋葬されますが、
宣化天皇と先に亡くなった皇后の橘之中比売命は合葬されたといわれています。
文献によって異なる皇位継承のながれ
継体天皇の崩御および安閑天皇と宣化天皇と欽明天皇の即位の時期は、文献によってかなり異なります。
「古事記」における皇位継承のながれ
「古事記」によると継体天皇の崩御は527年。
安閑天皇の崩御が535年。
宣化天皇の崩御や欽明天皇の即位の年は明記されていません。
継体天皇の項目の文中には
継体天皇→欽明天皇→安閑天皇→宣化天皇の順と書かれています。
しかし、「古事記」の項目は
継体天皇→安閑天皇→宣化天皇→欽明天皇の順になっています。
「日本書紀」における皇位継承のながれ
「日本書紀」によると継体天皇の崩御が531年。
その後、安閑天皇は即位後2年、宣化天皇は即位後4年で没したとされています。
「日本書紀」にはその後、継体天皇と (仁賢天皇の皇女である)皇后、手白香皇女(即位後に結婚した) との間に生まれた欽明天皇が即位したと書かれています。
「日本書紀」注記の記述
「日本書紀」の上記の記述には注記があります。
それによると
「継体天皇の崩御は534年だけれど、「百済本紀(クダラホンギ)」に531年と記載されているので、それに従った」
と書かれているのです。
これが本当であるなら安閑天皇が即位する534年まで2年あまりの皇位空白期間があることになります。
「元興寺縁起」によると
蘇我馬子が建立したといわれる元興寺 (ガンゴウジ) に残された縁起絵巻によると、
継体天皇の崩御は「古事記」と同じ527年、
安閑天皇はごく僅かな期間で、宣化天皇が531年崩御。
そして欽明天皇の時代となっています。
元興寺は仏教の伝来と密接な関係のあるお寺です。
仏教伝来が538年という説が有力視されていますので、
その時の天皇が欽明天皇であったということが蘇我氏にとって大切なことなのかもしれません。
これらから考えられること
この時期は、「古事記」や「日本書紀」の編纂時からそれ程遠い昔でもない話しです。
ですが、記述に矛盾がみられるということは、この時代のヤマト政権が混乱を極めていたということです。
そもそも安閑天皇と宣化天皇は継体天皇即位前に生まれた子供です。
皇后の御子として生まれた欽明天皇と対立があったのではないかという説もあります。
それを二朝対立説といいます。
二朝対立説については次回説明します。
はるさん的補足 安閑天皇陵から出土されたガラス
東京国立博物館 平成館に、ガラス碗が展示されています。
これは6世紀ころのサザン朝ペルシャで作られ、シルクロードを通り、中国や朝鮮半島を経由して日本に渡ったと考えられています。
奈良の正倉院によく似たものがあり、同時期に作られた可能性が高いと言われています。
安閑天皇陵から出土したのは江戸時代の享保年間だったと言われています。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)