これまでのあらすじ
仁徳天皇 「古事記」における聖帝の御世
御名代を定める
御名代とは
天皇・皇后・皇子・皇女の名を後世に伝えるために設置された部です。
仁徳天皇の御世に、皇后の石之日売(イワノヒメ)の御名代(ミナシロ)として葛城部(カツラギベ)を定めました。
また皇太子の伊耶本和気(イザホワケ 後の第17代履中天皇)の御名代として壬生部(ミブベ)を定めます。
壬生部とは
養育を担当する部です。
また、水歯別(ミズハワケ 後の第18代反正天皇)の御名代として蝮部(タジヒベ 大阪市、八尾市、藤井寺市辺りか?)を定めました。
また大日下(オオクサカノミコ)の御名代として大日下部(オオクサカベ)を定め、
若日下部(ワカクサカベ 髪長比売との娘、波多毗能若郎女のこと)の御名代として若日下部を定めました。
治水工事を行う
また(渡来人の)秦人を使って茨田(ウマラタ)の堤と茨田の三宅を作って、
また丸邇(ワニ)の池・依網(ヨサミ)の池を作り、
また、難波に運河を掘って海に通し、また、小橋の江(オバシノエ)を掘って、
墨江(住吉)の港を定めました。
税の免除
ある時、仁徳天皇が高い山に登って国の四方を見ておっしゃるには
国民はみんな貧乏だからだろう。
だから、今から三年間、全部の人々の税や労働を免除せよ。
このために宮殿は破れ壊れて、どこも雨漏りしても、全く修理されませんでした。
箱を置いて漏る雨を受けて、漏れない所へ移って雨を避けました。
三年後に国の中を見たら、どこも炊煙が立ち上っていました。
と思い、もういいだろうと課役を命じました。
このようなことで、人民は幸せになり、労役に苦しむことはありませんでした。
それで、その御世を称えて、仁徳天皇の世を「聖帝(ヒジリノミカド)の御世」と呼んでいます。
はるさん的補足 仁徳天皇と儒教思想
仁徳天皇といえば、巨大な前方後円墳と、この記事のエピソードが有名ではないでしょうか。
応神天皇の時代に和邇吉師(ワニキシ 王仁とも書きます)が百済からいらして論語や漢字を日本にもたらせました。
(参照:(137)百済からもたらされた文化、技術)
和邇吉師は仁徳天皇に直接、学問を教えていたと伝えられています。
「古事記」下巻からは、史実よりも天皇の人間的な面(恋愛など)が多く描かれていますが、この頃から儒教思想の影響が見られるようになります。
治水工事の時期や免税を巡っても史実かどうか議論されることがあるようですが、「古事記」の下巻の最初を飾る仁徳天皇は、
「仁政者・有徳者・善政者」
で、国家確立期の支配者としての理想像として描かれました。
ですから「古事記」では仁徳天皇を聖帝と呼んでおらず、
仁徳天皇の時代を「聖帝の御世」と呼んでいる、
という表現になったのでしょう。
※ただし「古事記 序文」では「仁徳天皇は聖帝と伝えられています。」という表現になっています。
天地開闢からここまでの記事
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上巻(序文から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)