これまでのあらすじ
応神天皇は強い母(神功皇后)と違って穏やかで優しい性格でした。
たくさんの子供は作りましたが、後継者も宇遅能和気郎子(ウジノワキイラツコ)にすると決め、子供達にも宣言しました。
大きな戦乱も起きず、渡来人に対しても丁寧に受け入れて多くのことを学び、文化も発展しました。
「古事記」における後継者争い
大山守命と宇遅能和気郎子の争い
応神天皇が崩御されると、大雀命(オオサザキノミコト 後の仁徳天皇)は、天皇の仰せに従って、
天下を弟である宇遅能和紀郎子に譲りました。
しかし、大山守命(オオヤマモリノミコト)は
父、応神天皇からは「お前は山と海の政を行え」と命じられていましたが、どうしても納得いかず、天下を治めたいと思っていました。
そこで大山守命はひそかに軍勢を整え、弟である宇遅能和気郎子を攻め滅ぼそうと、
宇遅能和気郎子(の宇治)の館に軍勢を差し向けようとしていました。
それを、いち早くお聞きになった大雀命は、宇遅能和気郎子に
と告げました。
宇遅能和気郎子は軍勢を宇治川の渚に伏せておいて、宇治の山の上に絹の布を垣根のように張って幕屋(偽りの仮宮)を建てました。
大雀命は
(大山守の目を欺くように) 舎人(下級の役人)を宇遅能和気郎子のように見せかけて
目立つ所に椅子にデンと座らせて、大勢の大臣や役人たちに前を通るときに敬礼をさせ、宇遅能和気郎子に見えるようにしました。
さらに大山守が宇治川を渡ってきた時にそなえて、偽りの仮宮を飾り整えました。
船と舵はサネカヅラの根をついてその汁の滑りを取って、その船の中の船底のすのこに塗り、踏むと滑って倒れるように細工をしておき、
宇遅能和気郎子は、布の衣・袴を着て、すっかり卑しい人の姿になって、舵を取って船の上に立っていました。
大山守は、兵士を隠し伏せておいて、衣の内に鎧を着て、宇治川のほとりに到り、船に乗ろうとするときに、
向うの山の上にある、飾りたてられた絹の幕屋の真ん中に、デンと座っている者(舎人)を見て、あれが宇遅能和気郎子に違いないと思い、
その舵取り(宇遅能和気郎子)に尋ねました。
俺はその猪を捕らえることができるだろうか。
無理でした。
なので無理でしょうと申し上げました。
この時代、猪を狩るというのは吉凶を占う(ウケイ)意味もありました。
(131)の香坂王(カゴサカノミコ)は猪狩りをして食い殺されました。
船が宇治川の中ほどまで来た時、
舵取り(宇遅能和気郎子)が突然大きく船を傾け、大山守を川の中に落し入れました。
しばらくして、大山守は浮き出ましたが
すぐに宇治川に流されていきました。
流されながら、大山守が歌います。
🍁ちはやぶる 宇治の渡に 棹取りに
速けむ人し 我が 仲間(モコ)に来む🍁
現代語訳
ちはやぶる宇治の渡し場で、棹をすばやく操る者よ
私を助けに来てくれ
(「ちはやぶる」は「宇治」を導く枕詞)
その時、宇治川のほとりに伏せていた宇遅能和気郎子の兵士たちがあちこちで立ち上がり、
弓をかまえて、流されていく大山守を射ようとしました。
大山守はどこまでも流されていき、はるか下流まで流されて、
訶和羅崎(カワラノサキ 現在の京都府京田辺市河原か?)まで流れ着いて沈みました。
大山守が沈んだところを鉤(カギ)付きの棒で探ってみると、大山守が衣の下に着ていた鎧に鉤がひっかかって、「カワラ」と音が鳴りました。
それで、その場所を訶和羅崎(カワラノサキ)と言うようになりました。
こうしてその死体を引き上げた時に、宇遅能和気郎子は駆け寄り歌いました。
🍁宇治川の渡し場に、渡り瀬に立っている檀(マユミ)の木
切ろうと心には思ったけれど、
取ろうと心には思ったけれど
根元のほうを見ては貴方を思い出し、
梢のほうを見れば妹を思い出し
心が痛んで、そこを見るにつけても思い出し
愛しいことでしたので、
ここまでその思い出の木を切らずに来たのに
その檀の木を切らずにきたのに
ああ…とうとう切ってしまった🍁
こう歌って、大山守の遺体は那良山(ナラヤマ 奈良市法蓮町鏡目谷の円墳)に葬りました。
大山守は土形君(ヒジカタノキミ)、幣岐君(ヘキミノキミ)、榛原君(ハリハラノキミ)らの祖先です。
天下を譲り合う大雀命と宇遅能和気郎子
このことがあって、大雀命と宇遅能和気郎子が天下を譲り合っていると、海人(アマ)が海産物を献上しにきました。
大雀命は宇遅能和気郎子に
宇遅能和気郎子は大雀命に献上させようとしているうちに、
何日も経ってしまいました。
このような事が何度もあったので海人は疲れ果ててしまい、泣いてしまいました。
それで諺に
🐟海人でないのに、自分の物のために泣く
(自分の物が元で泣くという意味)
と言います。
しかし宇遅能和気郎子は間もなく崩御なさいました。
そこで大雀命(仁徳天皇)が天下を統一なさいました。
はるさん的補足 仁徳天皇即位の経緯
応神天皇の後は仁徳天皇が即位しました。
その経緯が「日本書紀」では少し違います。
大山守の反乱を鎮圧した後宇遅能和気郎子が大雀命(仁徳天皇)に地位を譲ろうとしたことは同じですが、
「日本書紀」では宇遅能和気郎子が自死をしたことになっています。
しかし、宇遅能和気郎子の墓の場所さえわからない(宇治にあるのではないかと言われてはいます)など、
謎が多い死です。
ですから、この解釈を巡っては「仁徳天皇による謀殺説」もあります。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)